第2代史跡足利学校庠主
第二代史跡足利學校庠主
前田 專學(まえだ せんがく)
■プロフィール■
米国ペンシルヴァニア大学大学院東洋学科博士課程修了
東京大学名誉教授、東方学院長
専門:インド哲学・仏教学
主な著書:『インド的思考』(春秋社)、『インド思想史』(東京大学出版会)、『ブッダを語る』、『インド哲学へのいざない』(日本放送協会出版)、『ウパデーシャ・サーハスリー~真実の自己の探求~』(岩波文庫)など。
庠主という珍しい言葉を初めて目にしたのは平成6年に恩師中村元先生が史跡足利学校の庠主に就任されたというニュースが新聞で報じられたときでした。何かの折りに、中村先生に直接お尋ねして、「庠主」は「しょうしゅ」と読み、「庠」とは学校を、「庠主」とは校長を意味するということをお教え頂き、それで何か納得して終わり、後になって私と関わりがでてくるとはつゆほども思っておりませんでした。
中村前庠主は、インド哲学・仏教学・比較思想の領域における国際的に著名な巨匠でした。昭和48(1973)年東大名誉教授、文化勲章受章、海外からも数々の栄誉を得られました。先生は、ご自分の私財をなげうって設立された財団法人東方研究会の理事長・東方学院院長として「学歴・年齢・職業・国籍・性別などにとらわれず、本当に勉強したいと願う人々に、広く門戸を開いて」活躍されました。平成11(1999)年享年86歳で、庠主在職中に、亡くなられました。当時「巨星墜つ」、といってその逝去が惜しまれました。
先生が亡くなられた翌年、大きな支柱を失った東方研究会・東方学院の運営に、私が頭を悩ませていたある日、先生の後任として庠主になって欲しいとの要請があり、まさに青天の霹靂でありましたが、浅学非才をかえりみず、お引き受けすることになりました。
庠主の職は、現在は、足利市の条例で定められておりますが、じつは室町時代にまで遡る古い歴史と伝統があるのです。関東管領上杉憲実(1411-1466)が、1439年に鎌倉から快元という臨済宗の僧を招き学校の庠主に任命しました。その後も代々禅僧が庠主になり、明治2年尾張名古屋出身の第23代謙堂まで続きました。
足利学校は、日本最古の学校であるといわれていますが、いつ創建されたかについては、平安時代の初期、天長9(832)年小野篁(おののたかむら)が創建したという説をはじめ、諸説があり、定説がありません。歴代の庠主が尽力し、僧俗の学ぶものが多く、永正年間(1504-1520)から天文年間(1532-1554)には、学徒の数3000といわれ、事実上日本の最高学府となり、戦国の世にも読書の声が絶えなかったといわれています。このことは1549年に来日したイエズス会の宣教師ザビエルによって海外にも伝えられました。しかしザビエルは、この足利学校はいわば中国古典の総合大学であったにもかかわらず、日本を代表する仏教を中心とする仏教大学であると認識していて、キリスト教の布教にとって大きな障がいになると考えていたようです。 しかし江戸時代の末期には藩校へと移行し、明治5年をもって廃校となりました。大正10(1921)年に足利学校跡は、國指定史跡となり、平成2(1990)年には江戸時代中期の姿に復原され、前述のように庠主の職も、平成6年8月、中村先生を迎えて復活しました。
足利学校は、今や単なる「史跡」ではありません。「足利市民憲章」の第一条で「足利市は日本最古の学校のあるまちです」と宣言され、市民の方々に「学校様」と親しみをこめて呼ばれている足利学校は、まさしく足利市のシンボルであります。その輝かしい歴史的伝統を踏まえて、「教育の原点」「生涯教育の場」として、足利市のまちづくりの中心に据えられ、「公開講座」「足利学校アカデミー」「論語の素読」など各種の企画を立てて、未来を指向しています。長年にわたって足利学校が伝えようとしてきた貴い精神を継承し、発展させていきたいと切に念願しています。
2009年3月10日
庠主 前田專學