前田庠主のことば(平成17年11月23日)
昔、北インドのコーサラ国王パセーナディは、愛するマッリカー王妃とともに宮殿の屋上にいました。おそらく満月でもめでていたのでしょう。そのとき王は、王妃に、
「あなたには、自分よりももっと愛(いと)しい人が、誰かいるかね?」
と訊ねました。おそらく王は、王妃から間違いなく「はい、それはもちろん王様です!」という答えが返ってくるものと思っていたに違いありません。ところが王妃からは、「大王様、私には、自分よりももっと愛しい人はおりません。大王様にとっては、ご自分よりももっと愛しい人がおられますか?」
という、思いがけない答えと質問がかえってきました。そのときはっと気づいた王は、
「マッリカーよ。私にとっても、自分よりもさらに愛しい他のひとは存在しない」
と、答えざるを得ませんでした。そこで王は、宮殿をでて、仏教の開祖ブッダのおられるところへ行って、事の一部始終をお話しいたしました。それを聞いたブッダは、「どの方向に心で探し求めてみても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他の人々にとっても、それぞれの自己が愛しいのである。それ故に、自己を愛する人は、他人を害してはならない」
と、このような詩を唱えられました。
多くの人は、私も含めて、自己中心的で反省がなく、他人の身になってものを考えるということがなかなかできません。正常な人間であれば、自分が何よりも誰よりも愛しく、殺されたい、傷つけられたいなどと思う人はいないと思います。自分がそうであれば、他人も同様です。殺されたり、傷つけられたりする相手の立場に立てば、人を殺すなどということは、およそできないことです。『論語』の「己の欲せざる所、人に施すなかれ」とか、キリスト教の黄金律「あなたが他人からして欲しいと思うことを、そのまま他人に行え」(「マタイ傳」)も同じような精神に由来するのでしょう。相手の身になって考えると言うことから、究極的には慈悲とか仁とか愛のこころが起こると思います。
さらに考えをめぐらしますと、この自分というものは、本来、他人から離れては存在することはできないものであることが分かります。自分だけで生まれてきた人はおりません。着るもの、食べるもの、住む家など、すべて他人のおかげを受けおります。自分は、無数の他人との連関の中に生まれ、生き、死に、そして死後すらも連関の中にあるのです。日常、自分は、自分だけで生きているように錯覚しているのですが、じつは無数の他人に生かされているのです。他人を殺すことは、自分をも殺すようなものではないでしょうか。このことは、仏教では、自他不二(じたふに)とも、自他平等(じたびょうどう)とも言われています。
平成17年11月23日
前田專學