前田庠主のことば(平成28年11月23日)
中村先生のお考えによれば、「人間は思想なしには生きていくことが出来ない。思想などはいらないのだということ自体が、また一つの思想である。」 「思想の推移、変化というものは、人間の社会において、人間の現実生活に即しておこなわれたものであるに違いない。…そこでは心の中での深刻な葛藤抗争があったに違いない。思想史家はその心の中の苦悩の呻き声をききとらねばならぬ。」そしてその思想は自然に現れ出るのではなくて、「つねに歴史的社会的諸条件のなかで生まれてくるものであり、思想と歴史・社会との連関の問題も非常に重要である」とし、さらに宗教は人間の生み出した最も偉大な思想体系であると考えておられました。
確かに先生の学問の基盤となったのはインド思想史の研究でありましたが、それに留まらず文明の発達と共にますますグローバル化する世界の、異なった伝統を持つ東西の思想のみならず、ユーラシア大陸全域に見られた思想の比較研究を非凡な語学の才を駆使して大々的に進められました。その結果集められた膨大な資料から東洋でも西洋でもほとんど同じ問題が論じられており、しかも従来劣っていると考えられていた東洋思想は、決してそのようなことはなく、西洋思想と平行的な発展過程を辿っていることを明らかにされ、先人未踏の『世界思想史』全七巻を完成されました。これは視野を廣く世界にとり、比較という手法による、世界のだれも試みたことのない普遍的な思想史の最初の不滅の金字塔でした。
結論として「われわれは以上の考察によって人類の一体なることを知りえた。思想は種々の形で表明されるけれども、人間性は一つである。今後世界は一つになるであろう。…世界の哲学宗教思想史に関するこのような研究が、地球全体にわたる思想の見通しに役立ち、世界の諸民族の間の相互理解を育てて、それによって人類は一つであるという理念を確立しうるにいたることを、せつに願うものである。」と、願いを次世代に託してその『世界思想史』を結んでおられます。
思うに、中村先生は、戦争の世紀20世紀が生んだ、「現代の人間がこの現在の世界において達成すべき任務のうち最も重要なものの一つは平和」であると確信し、その道筋を示された、人文科学の領域の偉大な思想家でした。
平成28年11月23日
史跡足利学校庠主 前田專學