前田庠主のことば(令和2年11月23日)
インドの精神文化に憧れている人は必ず巨大なガンガー河の中流域にあるワーラーナシー(ベナーレス)を訪れる。さらに仏教に関心をもつものは、少し北に足を延ばして仏教の開祖ゴータマ・ブッダが紀元前5世紀頃に悟りを開いて初めて説法をしたサールナート(鹿野苑)を訪れる。
中に入るとそこには周囲の遺跡群とは異なる、すっきりとした近代風の寺院が見えてくる。それはスリランカ人のダルマ・パーラ(Dharmapala)が設立した大菩提会(Mahabodhi Society)が1931年に建立したムーラガンダクティー・ヴィハーラ(Mūlagandhakutī Vihāra 根本香精舎)である。ダルマ・パーラはブッダが悟りを開いたこの地を仏教復興の拠点にしようと度々訪れ、日本やアメリカやヨーロッパを回ってインドでの仏教復興を説いたのである。かれに帰依したハワイの王女のフォスター夫人が全財産を寄進して建てたものである。ダルマパーラはその壁面にブッダの一代記を描くに当たって、日本人の画家野生司香雪(ノースコウセツ)に委嘱することになった。それにはそれ以前に岡倉天心、横山大観、荒井寛方などがタゴールやラーマクリシュナ・ミッションと親交を結んでいたからであった。
香雪は1908年に東京美術学校(現在:東京芸術大学)を卒業し、青年時代にアジャンターの壁画模写の経験があり、インド仏教への関心を持ち続けていた。1932年11月香雪47歳の時、助手と、通訳として同行する長男義章の三人で郵船の室蘭丸に乗船し、コルカタ(カルカッタ)に到着した。
最初5ヶ月の契約であったが、現地の気候は想像を絶するものがあり、自然環境のまるで異なるインドでの絵具の選定調整も困難を極め、一度も帰国することなく、苦節すること5年にしてようやく完成した。その間に費用が枯渇し、香雪が仕事を継続できない雨期に沢山の絵を描き、インド、スリランカなどに数回の展覧会を開き、その収益をすべてこの事業に充てた。かくして高さ4メートル余、全長43メートル余の日本画による仏伝の大壁画が完成し、今ではアジャンターの壁画とともに、サールナートの仏伝壁画として世界に知られる文化遺産である。
中に入るとそこには周囲の遺跡群とは異なる、すっきりとした近代風の寺院が見えてくる。それはスリランカ人のダルマ・パーラ(Dharmapala)が設立した大菩提会(Mahabodhi Society)が1931年に建立したムーラガンダクティー・ヴィハーラ(Mūlagandhakutī Vihāra 根本香精舎)である。ダルマ・パーラはブッダが悟りを開いたこの地を仏教復興の拠点にしようと度々訪れ、日本やアメリカやヨーロッパを回ってインドでの仏教復興を説いたのである。かれに帰依したハワイの王女のフォスター夫人が全財産を寄進して建てたものである。ダルマパーラはその壁面にブッダの一代記を描くに当たって、日本人の画家野生司香雪(ノースコウセツ)に委嘱することになった。それにはそれ以前に岡倉天心、横山大観、荒井寛方などがタゴールやラーマクリシュナ・ミッションと親交を結んでいたからであった。
香雪は1908年に東京美術学校(現在:東京芸術大学)を卒業し、青年時代にアジャンターの壁画模写の経験があり、インド仏教への関心を持ち続けていた。1932年11月香雪47歳の時、助手と、通訳として同行する長男義章の三人で郵船の室蘭丸に乗船し、コルカタ(カルカッタ)に到着した。
最初5ヶ月の契約であったが、現地の気候は想像を絶するものがあり、自然環境のまるで異なるインドでの絵具の選定調整も困難を極め、一度も帰国することなく、苦節すること5年にしてようやく完成した。その間に費用が枯渇し、香雪が仕事を継続できない雨期に沢山の絵を描き、インド、スリランカなどに数回の展覧会を開き、その収益をすべてこの事業に充てた。かくして高さ4メートル余、全長43メートル余の日本画による仏伝の大壁画が完成し、今ではアジャンターの壁画とともに、サールナートの仏伝壁画として世界に知られる文化遺産である。
令和2年11月23日
史跡足利学校庠主 前田專學
掲載日 令和5年2月1日
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