前田庠主のことば(平成22年11月23日)
明治23年に来日した小泉八雲(1850-1904)は、横浜から赴任地の松江に到着して間もなく出雲大社のある杵築を訪ねました。その時の探訪記「杵築―日本最古の神社」の冒頭で八雲はつぎのように書いています。
神道は、…体系的な倫理も、抽象的な教理もない。しかし、そのまさしく「ない」ことによって、西洋の宗教思想の侵略に対抗できた。…現実の神道は、 …あくまで国民の心のうちに息づいているのである。…この国の人々の美の感覚も、芸術の才も、剛勇の才も、…すべてはこの魂の中に父祖より伝わり、無意識の本能にまで育まれたものなのだから。
このように八雲の直感は、神道のなんたるかを鋭く感じ取ったのです。儒教と仏教は、この神道の基盤の上にもたらされた外来の思想伝統でありました。私たちの祖先は、日本人の持ち前の好奇心、包容力、同化力によって、両者を日本化し、日本人の精神的バックボーンと化したのでした。しかし今やこのことが、西洋文明と科学・技術の偏重のために忘れ去られようとしております。その結果として、連帯感の喪失、人間の絆の衰退、心の空白などが今日の日本の社会において顕在化し、倫理道徳の退廃となっているように思います。
今日の日本においては、「宗教」と言えば敬遠されがちであり、宗教と関わりを持たないことを誇りに思う風潮すらあるように思います。しかし宗教と倫理道徳とを区別して考えるのは西洋の考え方です。西洋では、宗教性はイスラエルから発し、合理性はギリシャに源流があり、ある時は両者は合流し、ある時は分離し、ある時は争ってきたという歴史的な経緯があるために、宗教と倫理道徳は別のものであると考えられているのです。
かつて日本人は、神道、儒教、仏教を、それぞれ神道、儒道、仏道などといって、道として、すなわち人間の生き方として捉えてきました。日本人の、そしてアジアの、思想伝統においては、宗教と倫理道徳とは一体のものであり、一方が衰退すれば他方も衰退するのです。倫理道徳の退廃が叫ばれる今日、われわれの心の古里、神道、儒教、仏教を見直す必要があるように思います。この意味において、市内の小中学校生が、足利学校で論語の素読体験を行っていることは有意義なことであると思います。
平成22年11月23日
前田專學