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文化庁の審査結果とその後の取り組み

審査結果

  全国から32件の提案があった中から、5件が「世界遺産暫定一覧表」追加資産として公表され、そのうち現段階で課題をクリアしている3件が新たに暫定一覧表に記載されました。

 

  本市を含む27件の提案は「世界遺産暫定一覧表候補の文化遺産」として整理され、それぞれ文化庁から課題などが提示されました。

 

  「足利学校と足利氏の遺産」に関しては、「世界遺産暫定一覧表候補の文化遺産」のうち「カテゴリー2(世界遺産暫定一覧表へ記載されるためには大幅な見直しが必要)」と総合評価が位置づけられましたが、「足利学校とその関連資産」としては我が国の世界遺産暫定一覧表には未だ見られない分野の資産として、「カテゴリー1」に分類されました。

 

  また、「教育」のコンセプトで類似する他市提案との比較研究を進めるべき、との意見が添えられました。

 

  この結果を受け、今後の取り組み方針について検討し、本市の提案コンセプト「足利学校と足利氏の遺産」の更なる調査・研究を進めるとともに、文化庁から示唆された「近世の教育資産」としての可能性についても調査・研究を進めることにしました。

 

  各コンセプトの取組概要については次のとおりです。  

足利学校と足利氏の遺産

  「足利学校」と「足利氏」との関連を実証するため、鑁阿寺が所蔵する未調査文書等の調査を実施し、真実性及び完全性の確認を行っています。

 

  平成24年3月30日に、鑁阿寺所蔵文書の調査記録などを記載した、『世界遺産暫定一覧表候補の文化遺産「足利学校と足利氏の遺産」課題検討状況報告書』を発行しました。

近世の教育資産

  「近世の教育資産」として関連する茨城県水戸市の弘道館、岡山県備前市の閑谷学校、大分県日田市の咸宜園との連携を図るため、市長による懇談・視察をはじめ、事務局レベルでの協議を進めています。

 

  平成24年11月からは、水戸市・日田市とともに教育遺産世界遺産登録推進協議会を発足させ、平成27年5月からは備前市も加わり、教育遺産の調査研究や普及啓発(子ども向けパンフレット配布、国際シンポジウム開催等)を行っています。

弘道館(こうどうかん)  [茨城県水戸市]

弘道館正庁の写真

  弘道館は、第9代藩主・徳川斉昭(なりあき)により天保12(1841)年に創建された藩校です。

 

  水戸城内の178.431平方メートルという広大な地に建てられた弘道館は、当時の藩校として全国最大規模のものでした。施設は正庁(上の写真)、文館・武館(ぶかん)、天文方、医学館、寄宿寮、調練場、矢場・砲術場ほか多数設けられ、その配置には建学精神に即して独特の工夫がこらされました。

 

  弘道館は藩士に文武両道の修練をつませようと、武芸一般はもとより、医学・薬学・天文学・蘭学など幅広い学問をとり入れた現在でいう総合大学としての性格を有していました。

 

  第15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が慶応3(1867)年の大政奉還後、謹慎した至善堂をはじめ、至善堂と十間畳廊下で繋がる正庁や正門(写真右上)が現在も遺っており、貴重な建造物として国の重要文化財に指定されています。

 

⇒水戸市の教育資産(教育遺産世界遺産登録推進協議会サイト)

閑谷学校(しずたにがっこう)  [岡山県備前市]

閑谷学校講堂の写真

  閑谷学校は、寛文6(1666)年、備前岡山藩主の池田光政が和気郡木谷村の北端・延原の静かな地を訪れた際、学問の理想郷、庶民のための学校の建築を思い描きました。
  その実現のため寛文8(1668)年にこの地に手習所を設置。同10(1670)年に重臣の津田永忠(つだ ながただ)に命じて本格的な工事に取り掛かり、この地を「閑谷」と改めました。

 

  閑谷学校は領内の庶民や武士の子弟はもちろん、他領からも入学を許しており、「日本最古の庶民の学校」として、創学の精神が連綿と受け継がれました。
  また、備前焼の瓦が用いられた国宝の講堂(上の写真)をはじめ、優れた建造物が現在もよく遺っており、江戸時代の学校施設の典型として教育史上極めて価値が高いものです。

 

⇒備前市の教育資産(教育遺産世界遺産登録推進協議会サイト)

咸宜園(かんぎえん) [大分県日田市]

秋風庵の写真

  咸宜園は江戸時代後期の文化14(1817)年に、儒学者の広瀬淡窓(ひろせ たんそう)によって開かれた私塾(しじゅく)です。
  「咸宜」とは「みなよろし」の意味で、門下生一人ひとりの意志や個性を尊重する教育理念が名前に込められました。

 

  また、入門にあたり学歴や年齢、身分を問わない「三奪法(さんだつほう)」によって、全ての門下生を平等に教育しました。そのほか、門下生の学力を客観的に評価する「月旦評(げったんひょう)」や、規則正しい生活を実践させる「規約」、門下生に塾や寮を運営させる「職任」など、門下生の学力を引き上げ、社会性を身につけさせる教育が行われました。

 

  咸宜園は、淡窓没後も末弟の広瀬旭荘(ひろせぎょくそう)や門下生に引き継がれ、明治30(1897)年の閉塾まで、およそ5千人もの門下生が学び、近世最大規模の私塾となりました。

 

なお、広瀬旭荘は天保14(1843)年に足利学校を訪れ、「足利学校見聞記」を書き記しています。

 

⇒日田市の教育資産(教育遺産世界遺産登録推進協議会サイト)


掲載日 令和5年2月1日 更新日 令和5年10月17日
このページについてのお問い合わせ先
お問い合わせ先:
教育委員会事務局 文化課 文化財保護・世界遺産推進担当
住所:
〒326-8601 栃木県足利市本城3丁目2145番地
電話:
0284-20-2230
FAX:
0284-20-2207

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