構成資産の紹介(2020)
「近世日本の教育遺産群」を構成する教育資産
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足利学校 (あしかががっこう)
足利学校の創建は諸説あり、未だにハッキリしていません。文献上でその具体像が明らかになるのは、関東管領の上杉憲実が、学校を再興した室町時代中頃です。
憲実は五経疏本等の漢籍を寄進し、庠主(しょうしゅ=学校長)を鎌倉より招き、学則を定めました。以降、足利学校は開かれた学校として全国にその名を知られ、1549年に来日した宣教師フランシスコ・ザビエルは「日本国中最も大にして最も有名なり」と書簡に記すなど、広く海外にまで喧伝されました。
江戸時代に入ると、様々な教育施設が充実し、足利学校の教育機関としての役割は徐々に衰えていきましたが、幕府は足利学校を古代・中世の儒学の学灯を近世に橋渡しした存在、学問の殿堂として庇護し、孔子廟の建立や建物の修復が繰り返されました。また、所蔵する貴重な書籍の閲覧を求め、全国から儒学者や多くの知識人が訪れるなど、その存在は確固たるものでした。
足利学校大成殿(孔子堂)
寛文8(1668)年に造営された日本最古の孔子廟です。中国明代の聖廟を模したものと伝えられています。
閑谷学校 (しずたにがっこう)
閑谷学校は寛文10(1670)年、岡山藩主池田光政が創設した日本最古の郷校(学)です。初めて閑谷の地に来観した池田光政は、「山水清閑、宜しく読書講学すべき地」と称賛、地方のリーダーを養成する学校の設立を決めたのです。
天和2(1682)年に閑谷学校を永続させるよう遺言して光政が亡くなると、この意を受けた家臣津田永忠は、約30年かけて、元禄14(1701)年に現在とほぼ同様の外観を持つ、堅固で壮麗な学校を完成させました。
閑谷学校は庶民教育を中心としながらも、武士や他地域の子弟も受け入れた先進性、地域の人々に支えられ、教育制度の変化にあわせて存続した継続性等が評価されています。学校の永続のために入念な設計・建築がなされ、清閑な周囲の自然環境(字学校山)も含め、完成時の遺構が良好な状態で遺存し、講堂は学校建築で唯一の国宝に指定されています。
閑谷学校 講堂
元禄14(1701)年に建てられました。内部は10本の丸柱を使った3間の室内とそれを囲む入側から成っています。
咸宜園 (かんぎえん)
咸宜園は文化14(1817)年、全国的に著名な漢詩人であり、儒学者であった廣瀬淡窓が天領日田の地に創設した私塾(学問塾)です。身分・階級制度の厳格な時代にあって、身分等の区別なく生徒を受け入れました。
入門時から徹底した実力主義を貫き、その名は全国に知れ渡り、実に80 余年の長きにわたって、全国60 か国以上からおよそ5,000 人の遊学の徒が入塾しました。最盛期には230 人を超える門人生が学び、私塾としては破格の規模といえます。
咸宜園を訪れれば、全国有数の教育を展開した私塾だけでなく、それを育んだ環境や豊かな町人文化にふれることができます。
豆田町(まめだまち)の街並み
日田代官所の陣屋町として形成され、後に商家町として繁栄しました。 淡窓はここで生まれ、学問の道を志しました。
弘道館、偕楽園 (こうどうかん、かいらくえん)
弘道館は天保12(1841)年、水戸藩主徳川斉昭が創設した藩校です。
その建学の精神は、内憂外患の時代を念頭に置き、「教育によって人心を安定させ、教育を基盤として国を興す」というものでした。 この精神を反映し、弘道館は儒学教育を基盤としながら、時代の要請に即して総合大学化し、学科ごとに学舎を設け、文武・医学・天文学に至るまで、きめ細やかな教育体系を備えました。 弘道館は当時の藩校教育の理念やカリキュラムが集約された、藩校の到達点として評価することができます。
また、斉昭は「心身の安寧がなくては学問の大成はおぼつかない」との信念から、天保13(1842)年、弘道館と一対の教育施設として偕楽園を開園しました。庭園内には学問にゆかりの深い梅の木が植栽され、当代随一の梅林の中で人々が詩歌に興じ、学業の疲れを癒やしたのです。
弘道館 正庁(こうどうかん せいちょう)
書院造の大規模な藩校遺構です。正門・至善堂とともに国の重要文化財に指定されています。
偕楽園 好文亭(かいらくえん こうぶんてい)
「文(学問)を好む」という梅の別名にちなみ命名された、偕楽園のシンボルです(昭和33年再建)。