国指定史跡『樺崎寺跡』の歴史
樺崎寺跡は源姓足利氏二代目足利義兼(あしかがよしかね)によって創建されたと言われている中世寺院の遺跡です。義兼は源頼朝(みなもとのよりとも)のいとこであり、北条時政(ほうじょうときまさ)の娘を妻とする、義兄弟でもあります。平安時代末期、源氏と平氏の戦いでは頼朝の右腕として活躍し、鎌倉幕府創設に貢献しました。奥州平泉での戦いに臨み、戦勝を祈願するため樺崎の地を伊豆走湯山(いずそうとうさん)の理真上人(りしんしょうにん)に寄進したのが寺の始まりとされています。
平泉で毛越寺(もうつうじ)や中尊寺(ちゅうそんじ)などの華麗な寺院を見た頼朝以下御家人たちは、それぞれ自分の領地に池を中心とした浄土庭園を持つ寺院を建てたといわれます。義兼も足利に帰ってからは庭園を整備したのでしょう。そして晩年は樺崎寺(かばさきでら)で念仏三昧の日々を送り、生入定(いきにゅうじょう)したと伝えられています。
鎌倉時代の足利氏は北条氏と姻戚関係を結びながら有力御家人としての地位を築いていきます。このころの樺崎寺は足利氏の勢力を背景に堂塔を整え繁栄しました。義兼の六代後の尊氏(たかうじ)が室町幕府を開いてからは幕府と鎌倉公方の保護を受けました。将軍と鎌倉公方が対立するようになると、御廟の建て直しがされるなど公方家の保護が大きくなると同時に政治的な場として利用されるようになります。
戦国期になり足利氏が力を失うと樺崎寺も衰えていきます。江戸時代には足利氏の末裔である喜連川氏によって八幡宮が再建されますが、中世の繁栄は見られません。明治政府による神仏分離令により樺崎寺はその歴史の幕を閉じることになりますが、境内は樺崎八幡宮として氏子の方々に守られてきました。
その後昭和59年度からの発掘調査等により平成13年1月、国史跡に指定されました。