銅造 阿弥陀如来立像及び観音菩薩、聖観音菩薩立像(どうぞう あみだにょらいりゅうぞうおよびかんのんぼさつ しょうかんのんぼさつりゅうぞう)
阿弥陀如来立像(中央)
観音菩薩立像(左脇侍)
聖観音菩薩立像(右脇侍)
- 阿弥陀如来立像(中央)
総高:56.8cm、像高:31.5cm、袖張:7.6cm
光背高:39.5cm、台座高:17.3cm
銅像、鍍金
鎌倉時代後期
衲衣(のうえ:上着)を通肩(左右対称の着方)にまとい、両手は来迎印を結びますが、両手首の先に後世の補修が認められることから、もとは刀印(とういん:左手は下げて人差し指と中指を立て、右手は上げて開く)を結ぶ善光寺式阿弥陀三尊像の中尊(ちゅうそん)であったと考えられます。
- 観音菩薩立像(左脇侍(ひだりわきじ))
像高:24.4cm、袖張:6.2cm
銅像、鍍金
鎌倉時代後期
上半身を前傾させ蓮台を執る菩薩像は、いわゆる来迎形の観音菩薩像とされます。
本像背面の「高田國安」の陰刻銘は、埼玉県越谷市 林泉寺の銅造阿弥陀如来立像(市指定)に確認されており、形状や技法などが本像と類似しています。
また林泉寺像には「永仁五年」(1297)の銘があることから鎌倉時代後期の作と考えられます。
- 聖観音菩薩立像(右脇侍(みぎわきじ))
像高:26.0cm、袖張:5.6cm
銅像、鍍金
14世紀後半ごろ
顔の輪郭や髷の結い方などから、南北朝から室町時代の院派あるいは円派仏師によって造られた聖観音菩薩立像と考えられます。
院派あるいは円派仏師の立像は作例が少なく貴重です。
これら三尊は、形状などから作り手が違うことがわかり、もともとは別個の仏像であったとされます。
中尊の光背には「元禄六癸酉年極月十五日 菅田山光得禅寺現住比丘祖梁再興焉」の朱書銘があり、また厨子には「寛政十二庚申八月吉日納之施主當所住長丹波」の朱書銘があることから、元禄6年(1693)に中尊の光背が造られ、その後両脇侍と三尊の組み合わせとなり、寛政12年(1800)に造られた厨子に納められたと考えられます。
「長丹羽」(ちょうたんば)とは樺崎八幡宮の神官が代々襲名した名で、「當所住」とあることからもとは樺崎寺に納められた厨子であった可能性が考えられます。
これら三尊は光得寺と樺崎寺にかかわる歴史資料として貴重なものです。