梁田戦争関連史跡(やなだせんそうかんれんしせき)
東軍戦死者追悼碑
戦死塚
弾痕の松
慶應4年(1868)、鳥羽・伏見の戦いに始まった戊辰戦争は、ここ関東にも戦火を拡大し、例幣使街道の一宿場(しゅくば)であった梁田宿においても戦闘が繰り広げられました。
この戦いは梁田戦争と呼ばれ、梁田戦争関連史跡は、「梁田戦争戦死塚」「明治戊辰梁田役東軍戦死者追弔碑」と「弾痕の松」から構成されています。
「梁田戦争戦死塚」はこの戦いにより倒れた旧幕府軍戦死者の墓で、多数の石塊(せっかい)を積んで石塁とし、上に高さ105cm、幅120cm、厚さ20cmほどの扁平な石碑を置いています。
戦死塚は戦争直後、村民により渡良瀬川の河原に建てられましたが、洪水により塚の一部がえぐられる事態が発生したため、その後、現在地の長福寺に移設されました。
「明冶戌辰梁田役東軍戦死者追弔碑」(めいじぼしにゃなだえきとうぐんせんししゃついちょうひ)は、長福寺本堂に向かってすぐ左手にあり、台の上に建てられた高さ260cm、幅77cm、厚さ15cmの碑で「大正十三年九月 従軍衝鋒隊士 従四位勲三等内田万次郎建立」とあり、さらに尽力者5名の名が刻まれています。
内田万次郎は幕府軍として父とともに梁田戦争に参戦し、その後も五稜郭の戦いまで各地を転戦しました。
戦後、特赦を得て大蔵省印刷局に奉職し、退職後にこの碑を建てました。
「弾痕の松」は、梁田戦争の際に砲弾があたり、その痕跡を残す松です。砲弾の痕跡は32cm×10cmほどあり、現在はコンクリートが詰められています。
松はもともと梁田宿の中にあった「中山楼」という旅籠(はたご)の庭先にありましたが、その後の所有変更を経て由緒ある松として梁田村へ寄贈され、梁田小学校、役場等と幾度かの移植を経て、現在地の梁田公民館へ移植されました。