河内家文書(修験道史料)(かわうちけもんじょ(しゅげんどうしりょう))
修験道は、皇室、貴族、大名などと手を結び、江戸時代には全国的に全盛を誇った。
密教である天台真言の一面をになったものであり、京都の聖護院を本山派(天台)とし、三宝院を当山派(真言)として2つの教派に別れ、全国に直属の地方本山を正年行事として配置し、全国の霞下(末寺)を支配させ強大なる勢力を擁して互いに勢力を競い合っており、そのために幾多の争いや騒動が行われていた。その他にも熊野山、羽黒山、英彦山が持出していたが、資料が少ないため研究者も少ない。
河内家文書は修験関係のものが91点と多く残され、内容としては、まず一般的な「院号御免之事」や「金欄地結袈裟御免之事」など任免御免に関する文書がある。その他「第五御戸開作法」や「一代之星」、「九條錫杖」などの修験道の神髄ともいうべき修験作法の秘術である呪術加持祈祷の秘法や、諸行事における作法経典などの文書も数多く見られることに特徴がある。
これらの文書によれば河内家は千手院と称し、同行寺院の中では大きな勢力を持っていたようで、武州幸手の不動院の霞下にあったが、単独の修験寺院でもあった。従って足利地区の修験寺院との関係は勿論、上州第一の地方本山館林興蔵寺との関係は浅からぬものがあり、その関係を示す文書も多数見られる。
本市における江戸時代の修験者(山伏)は66名があげられていおり、修験道史料が残っているとされる家は市内にもいくつかある。
河内家文書はその中でも量、質共に特筆されるもので、江戸時代の修験関連分署が90点以上とまとまって残されており、市内では2番目に多くの量が残され、貴重である。内容も、他の寺院でも見られるような一般的な任免御免に関する文書も多数あるが、その他に修験道の神髄ともいうべき修験作法や呪術加持祈祷の秘法、諸行事における作法経典など当時の修験山伏にとって不可欠の経典・参考書が数多くあり、市内の他家の文書には見られない特徴がある。
これらの文書は、当時の人々の精神生活を知るための、また、修験道の歴史・内容を知るための貴重な史料である。