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足利学校のあゆみ

足利学校年表

小野篁像の写真
小野篁

 

上杉憲実の写真
上杉憲実

 

ザビエル(神戸市立博物館蔵)の写真
ザビエル(神戸市立博物館蔵)

 

足利学校整備以前の航空写真
足利学校整備以前

 

足利学校整備以後の航空写真
足利学校整備以後

平安時代 天長9年
(832)

小野篁、淳和天皇の勅命により足利学校を創立するという。
『鎌倉大草紙』・『下毛埜州学校来由記』

鎌倉時代 建久年間
(1190~1199)
足利義兼、足利学校を創立するという。
南北朝時代 正平4年
(1349)

鎌倉公方・足利基氏により学校が興隆する。

『鑁阿寺日記』

室町時代 応永30年
(1423)

『学校省行堂日用憲章』(川口市・長徳寺蔵)により足利学校に附属病院が置かれていたことがわかる。

永享9年
(1437)

重要文化財『周易』の表紙裏張りに、この年の暦(三島暦)が使用されている。

永享11年
(1439)

関東管領・上杉憲実が『尚書正義』・『礼記正義』・『春秋左伝註疏』・『毛詩註疏』等の書籍や学田を寄進し、鎌倉 円覚寺から僧・快元を庠主(校長)に招き、足利学校を再興する。

文安3年
(1446)
上杉憲実が「学規三条」を制定する。
文正元年
(1466)

長尾景人が勧農城に入り、足利学校もその支配下になる。

応仁元年
(1467)
長尾景人が足利学校を現在地に移す。『鎌倉大草紙』
永正6年
(1509)
宗 長(連歌師)が来訪する。
享禄年間
(1528~1531)
足利学校の講堂、書院が全焼する。
天文4年
(1535)
孔子坐像が制作される。
天文18年
(1549)

キリスト教宣教師 フランシスコ・ザビエルが鹿児島から印度ゴアにあてた書簡で足利学校を「坂東の学院」として紹介する。

天文23年
(1554)

足利学校第7世庠主・玉崗瑞璵が学校鎮護のため稲荷社を再建する。

永禄3年
(1560)

足利学校第7世庠主・玉崗瑞璵が大隅国への帰郷途中に小田原で北条氏康・氏政父子に易を講じ、『文選』の寄進を受ける。

永禄4年
(1561)
天海僧正、この年から4年間足利学校に在学する。
桃山時代 天正8年
(1580)
武田勝頼が学校保護のため、濫妨狼藉停止の禁制を発する。
天正15年
(1587)

ルイス・フロイス(ポルトガル)が、『日本史』に足利学校を「坂東随一の大学」と記す。

天正18年
(1590)

堀川国広、足利学校で鍜刀する。(脇指銘「日州住信濃守國廣作」(号布袋国広))

天正19年
(1591)

豊臣秀次 の命により、足利学校第9世庠主・閑室元佶が学校什物、書籍とともに上京する。

文禄4年
(1595)
徳川家康、書籍等を足利学校へ返還する。
江戸時代 慶長4年
(1599)

足利学校第9世庠主・閑室元佶が徳川家康の命を受け、木活字10万余字を作り、『標題句解孔子家語』を京都伏見において刊行させる。(伏見版)

慶長5年
(1600)
足利学校第9世庠主・閑室元佶が関ケ原合戦の際に徳川家康に従う。
家康自筆、丸に「学」の字の旗指物を与えられたという。
慶長11年
(1606)
講堂を修復・本尊薬師如来を造立する。
元和3年
(1617)
徳川2代将軍・秀忠が足利学校に寺領100石の朱印状を下す。
寛永13年
(1636)

尾張(名古屋)藩主・徳川義直が日光社参の往途、足利学校に立ち寄る。

堀 杏庵も随徒し、来訪する。

寛文7年
(1667)

徳川4代将軍・家綱より白銀50貫を支給され、建物造営・修復に着手する。

寛文8年
(1668)
大成殿、学校門等が完成する。
延宝8年
(1680)
この年から『足利学校記録』の記事あり。
(元治元年(1864)までの庠主の日記や記録)
元禄2年
(1689)

ジャン・クラッセ(フランス)、『日本西教史』に足利学校を「坂東の有名なる大学」と記す。

享保15年
(1730)
徳川8代将軍・吉宗より金100両を支給され、講堂を修復する。
宝暦4年
(1754)

落雷により方丈、庫裡等を焼失する。

(大成殿、文庫、三門等は焼失を免れる)

宝暦6年
(1756)

前年の災害復興のため、幕府より500両を支給され、方丈、庫裡等を修復する。

寛政5年
(1793)

松川東山(儒者)、蒲生君平(学者)が庠主を補佐し、学校改革に尽力する。

寛政8年
(1796)
谷 文晁(画家)が来訪し、山水画等を描く。
天保2年
(1831)

安養院火事により大成殿、文庫、鎮守、学校門以外類焼する。

渡辺崋山(画家)が来訪する。

嘉永5年
(1852)
吉田松陰(幕末の志士)が来訪する。
明治
~平成
明治元年
(1868)

足利学校の管理が足利藩主・戸田忠行に委任され、足利学校に藩校求道館が併設される。

明治4年
(1871)

廃藩置県により、足利学校が廃校になる。管理が足利藩から足利県、そして栃木県になる。

明治6年
(1873)
足利学校跡の東半分に小学校が建てられる。
明治13年
(1880)
釋奠が挙行される。
明治25年
(1892)
家富町より出火の大火で、杏壇門の一部を焼失する。
明治33年
(1900)
杏壇門を修復する。
明治35年
(1902)
足利学校遺蹟、足利町有になる。
明治36年
(1903)
足利学校遺蹟図書館が開館する。
明治43年
(1910)
釋奠記念講演が行われる。
大正4年
(1915)
足利学校遺蹟図書館を新築する。
大正10年
(1921)
国の史跡指定を受ける。
大正11年
(1922)
楷樹が寄贈される。
昭和27年
(1952)
『文選』が国宝指定を受ける。
昭和30年
(1955)

『礼記正義』、『周易注疏』、『尚書正義』が国宝指定を受ける。

昭和38年
(1963)
人徳門が倒壊する。(同年修復)
昭和41年
(1966)
収蔵庫の建築工事に着手する。(翌年完成)
昭和56年
(1981)
足利学校跡保存整備事業に着手する。
平成2年
(1990)
足利学校中興550年祭を挙行する。
建物(方丈等)・庭園など江戸時代中期の姿に復元する。
平成6年
(1994)
東京大学名誉教授・中村 元氏が史跡足利学校庠主になる。
平成13年
(2001)
東京大学名誉教授・前田專學氏が史跡足利学校庠主になる。
平成26年
(2014)
第1回こども釋奠が挙行される。
平成27年
(2015)
弘道館(茨城県水戸市)、閑谷学校(岡山県備前市)、咸宜園(大分県日田市)とともに日本遺産「近世日本の教育遺産群-学ぶ心・礼節の本源-」に認定される。
令和 令和3年
(2021)
東京大学名誉教授・五味文彦氏が史跡足利学校庠主になる。

掲載日 令和6年9月15日 更新日 令和6年9月18日
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教育委員会事務局 文化課 史跡足利学校事務所
住所:
〒326-0813 栃木県足利市昌平町2338番地
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0284-41-2655
FAX:
0284-41-2082
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