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足利学校Q&A

Q.1  先生、学生はどんな人たちだったのですか?
A  学生は全国から集まり、中には沖縄出身の人もいたという記録があります。学生の大半は、僧侶(お坊さん)でしたが、僧侶以外の俗人には僧侶の学徒名がつけられました。
庠主(しょうしゅ=校長先生)には、当時の学問のトップレベルにあった学問僧が任命されていました。例えば、初代庠主は鎌倉(かまくら)五山(ござん)派の僧快元(かいげん)で易学の権威でした。
Q.2  入学資格はあったのですか?
A  時代によって、必要な時期と特に問われなかった時期がありました。
第十代「寒松(かんしょう)」庠主の頃からは、僧籍を持っていないと入学できなかったので、僧籍のない人は寺で借りて、学校を出ると返していたようです。
Q.3  入学試験はあったのですか?
A  特に無かったようです。しかし、誰でも自由に入れた訳ではなく、庠主の裁量に任されており、庠主が決めていた様子がうかがえます。
  当時学問する中心は僧侶であったので、寺の本山の紹介状を持って来た学徒もいました。
Q.4  入学金はいくらぐらいだったのですか?
A  「束脩」として反物等を持参していたものと思われます。当時としては、かなり高価なものでした。
※[束脩(そくしゅう)](束ねた脩・すなわち干し肉)師匠のところへ弟子入りするときにお礼として納める金品。
Q.5  学費はいくらぐらいだったのですか?
A  学生が学費を払ったという記録はなく、逆に学校側が食事と宿舎を提供していたという記録があります。
Q.6  校則はあったのですか?
A  室町時代に足利学校を中興した関東(かんとう)管領(かんれい)上杉(うえすぎ)憲実(のりざね)公が定めた「学規(がっき)三条(さんじょう)」が校則にあたります。
これには「足利学校で学ぶべき学問の内容や規則を守らない学生の在校を許さない」「就学に不熱心な学生の在学を許さない」「学生は入学に際して僧侶の身分となる」と定められています。
Q.7  授業の内容や、時間割はどうなっていたのですか?
A  孔子の教えに基づく「儒学(じゅがく)」を中心に学んでいました。創設以来、易学(えきがく)(占い)を重視し、戦国期には、兵学(へいがく)(兵法戦略)も学びました。現在のような時間割はなく、自学自習(じがくじしゅう)が基本で、主に、中国の古い本を教科書とし、それを書き写して学生は学んでいました。
Q.8  何年在学して卒業したのですか?
A  現在のように何年制と定められてなく、自学自習だったので自分の学びたい学問が終わったら生徒は帰って行きました。ですから、長い人では10年以上、短い人では 1日の在学だったようです。自分自身で納得するまで学んだら卒業したのです。
Q.9  なぜ多くの学徒が集まったのですか?
A  他に類のない、良い教科書が揃っており、立派な先生が教えていました。
現在のように何年制と定められてなく、自学自習でした。

掲載日 令和5年2月1日
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