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トップ教育・文化教育生涯学習公民館地域情報> 【三重公民館】三重地区の名所・旧跡

【三重公民館】三重地区の名所・旧跡

「庚申(こうしん)さま」について  ―五十部町田自治会蔵―

最近まで「庚申まつり」を実施していたところに五十部町田地区があります。
  現在は農家の方もいなくなり、庚申の祭りを取り仕切る人たちもいなくなってしまいました。
  そんな中、残されている庚申まつりの用具一式を自治会で預かり管理保管することになった話が町田自治会長よりありましたのでちょっと調べてみました。
  路傍の石塚の中で、一番目につくのに庚申塔があります。
足利市文化財総合調査昭和55年度の年報によりますと三重地区では14基確認されています。
  五十部町内では蔦ヶ入から清風高校へ至る庚申坂の庚申塔が良く知られています。
その他には瑞泉院内、西舟稲荷神社裏、東山首なし地蔵のわき、大岩町では鹿島神社入口、毘沙門道、男坂登り口、今福町4丁目市道わきに見られます。
  庚申とは、言うまでもなく十二支十干のすなわち干支の中のひとつです。
日本では、明治以前には年や日を数えるのに、この干支で行っていました。干支での読み方はかのえさる(庚申)となります。
  江戸時代には特に盛んで、この日になると庚申講という仲間をつくっている人たちは、夕方頃から仲間うちの一軒に集まり、「お庚申さん」「庚申さま」などとよばれている木像や、絵像、神号の前で、簡単なお祭りや勤行をしました。
  そのあと飲食をともにしながら夜明けまで、または一番鶏が鳴くまで、いろいろな遊びや雑談をしてゆっくり過ごしました。これが一般的な形です。三重地区は大岩町の大海戸(てがた)地区でも昭和60年初め頃まで行われていたようです。
  庚申の日は60日に1回やってきます。3年連続18回、庚申講を実施すると一区切りとして、盛大な供養をして供養塔をたてるのが原則とされていたようです。これが路傍にある石塚の庚申塔です。

庚申の御本尊

青面金剛  ・帝釈天  ・地蔵尊  ・阿弥陀  ・猿田彦命(神道的)

五十部町田地区で使用されていた「青面金剛(しょうめんこんごう)の絵像として用度品(五十部町田自治会蔵品)」

正徳元年(1711年)作成の掛け軸

正徳元年(1711)作成

天保14年(1844)作成の掛け軸

天保14年(1844)作成

五十部町田地区で使用されていた「青面金剛(しょうめんこんごう)の絵像として用度品

庚申信仰について

「道教の三戸(さんし)説」

  人間の体内には三戸という虫がいる。それは頭に一戸、胴体に一戸、下半身に一戸、都合三戸。
  三戸は形はないけれども、鬼神や霊魂のたぐいで、人間が死ぬと鬼(亡霊)となって、勝手に方々遊び歩いて祀ってもらうことができるという。そこで、いつも人間が早く死ぬように期待して、庚申の日ごとに天に上っていって、人間のやった過失、悪事をこと細かに天帝に告げるという。その悪事を報告されるたびに、少しずつ寿命が短くなると考えられています。
  しかし人間が目を覚ましている間は、三戸は上天することができないと言われています。
  そこで庚申の日に徹夜をすることが守庚申です。守l庚申を3回やれば、三戸は恐れおののき、7度やれば三戸は永久に絶えるといわれ、そうなれば人間は精神は安定し、身体も安らかになって、生命は永らえることができるということです。
  他にご利益として農村では豊作、漁村では大漁、都市では商売繁盛、全国的には病気よけ、治療などがあるようです。江戸時代に、この信仰が一番華やかで、全国的に普及しました。

庚申と三猿の関係

さまざまな説があるようですが、学問上では定説がでていないようです。一般的には、庚申の申(さる)から、猿が連想され、悪いものは見たり、聞いたり、言ったりしてはいけないという戒めとされています。

 

資料  中島太郎著  「北の郷御物語」
浄林寺だより  第10号  昭和64年1月1日発行
五十部町町田自治会蔵の用度品

町田庚申講の由来と歴史

庚申講の歴史は古く297年前(正徳元年/1711年・徳川幕府6代将軍家宣公の時代)の昔より執り行われていました。    
  現在保管されている庚申様の掛軸は、足利地区でも希少なる貴重な文化財だと思います。
  祭りは数戸の農家がグループを作り、秋に収穫の終わる旧暦9月16日に個人の家に集まり、今年収穫した米、野菜等を供え豊作を祝い農家同士の親睦を深めあったと聞いております。
  当時は足利郡五十部村原と呼ばれ、人家の戸数も少なく2グループぐらいだったようです。農家の戸数が増すにつれ庚申様の掛軸を作造しました。
  保存されている4組の掛軸の大きさが違うのはその時々により作られたためとの事です。
  いつの時代からか定かではありませんが、4組のグループが集会所の開設時に集まり、その後合同で開く様になりました。  
  掛軸を与えられる釜番が宴会の準備をして開催しました。そして翌年の釜番が掛軸や備品を自宅に持ち帰り一年間保管しました。
  特に会員が多かったのは終戦直後でした。しかし食糧難時代町田地区の農家戸数40戸をピークに年々減り続けました。
  庚申講の祭りが会費制となったため参加者が減り10年前には参加者6名となり中止となってしまいました。
  町田自治会としては、この由緒ある伝統を引き継ぎ、このたび自治会主催として庚申祭りを執り行いました。

町田自治会館での庚申祭りの様子

町田自治会館での庚申祭りの様子1

町田自治会館での庚申祭りの様子2

六角家騒動について(今福町厳島神社  弁財天)

今福町4丁目に厳島神社弁財天宮があります。現在は今福町の5つの自治会が、御祭りし守っている神社です。
  平成19年10月から12月にかけて、倒壊の危機にあった弁財天を土台と屋根を中心に解体修理しました。この際、屋根裏より銅版製の棟札を発見しました。
  棟札には「領主  高家旗本  六角越前守廣治により元禄5年5月改営」と記録されています。堀江一族により、大岩山毘沙門天の山門(仁王門)が創建されたのが、元禄6年(1693)ですから、今福町の弁財天の方が古い建造物であることが分かりました。
  六角家は、江戸時代前期の公卿であり歌人でもある烏丸大納言光広の次男、広賢を祖とします。
  正保4年(1647)本昭院守澄親王に従い江戸に下り、元禄2年(1689)六角広賢の長男、廣治が従五位下侍従、越前守、木工権頭、高家職に就き、下野足利郡内に1千石を与えられたことに始まります。
  廣治の子、廣豊の代に2千石を知行し、享保6年(1721)から、下野国安蘇郡、足利郡の8ヶ村と武蔵国の2ヶ村を領地としました。
  足利郡における、六角家の知行地です。
  山川村384石、助戸村279石、田島村206石、大久保村294石
  追間村249石、今福村127石、稲岡村、小中村
  天保12年(1841)安蘇郡小中村の名主は25歳の田中富蔵が務めていました。この年11月3日、息子田中兼三郎(かねさぶろう)が生まれています。
  この時代は、老中水野忠邦による天保の改革が始まり、また天保の大飢饉が発生、農村は疲弊し、百姓一揆や打ちこわしが続発するなど、社会不安が広がっていました。下野国でも打ちこわしが相次ぎ、明治維新を暗示する激動の時代でした。
  この天保世代には、兼三郎の6歳上に、坂本竜馬、土方歳三、4歳上に徳川慶喜、3歳上に大隈重信、近藤勇、桂小五郎、福沢諭吉、そして足尾銅山を経営する古河市兵衛も、この世代に属しています。
  1840年代、この小さな領地の平和は乱されることはありませんでした。小林藤七という有能な人物が割元役を勤めていて領主の金庫を満たし、かつ農民に不自由をさせぬという態度を保っていたからです。しかし息子の藤吉が継いでから、六角家の財源はみるみる減ってしまい、財政は行き詰まります。
  安政4年(1857)、兼三郎の父、田中富蔵は藤吉に代わって割元役を命じられます。そして息子の兼三郎が小中村の名主となります。六角家にも、有能で真面目な坂田という人物が筆頭用人となり、割元役の富蔵と働き、負債を解消し、3千両の貯えをもつようになり、信用をとりもどします。
  ところが不幸にも文久2年(1862)用人坂田が急死、後任に林三郎兵衛が用人筆頭に付きます。
  林三郎兵衛は封建制度下の腐敗した役人の最たるもので、自分の地位と領内の行政の複雑な仕組みについての知識を悪用し、私腹を肥やし、取り巻き連中の懐を暖かくしてやることだけしか頭にない人物でした。
  六角家領内の7年にわたる騒動の始まりです。
  林用人は当時の六角家の若殿(13歳)が結婚することになったので、江戸屋敷を新築したい旨を届けでます。若殿の将来を案じて、快適な住宅を建ててさしあげるという一見殊勝な心がけに見えたが、実はそうではありませんでした。
  なぜなら、このような新普請において、用人筆頭がおこなう土木工事の注文や監督の仕事の時にはその代償として、建築費用の3割から5割を、用人自身が取る習わしになっていました。
  また、悪いことに割元役富蔵と筆頭用人であった坂田が苦労して貯えた3千両の内から建築費を全額融通しようとしていたのでした。割元役として富蔵は激怒します。金庫はすぐに枯渇してしまうだろうし、領主と村民の双方が迷惑をこうむることになるのは、火を見るよりも明らかだったからです。
  用人の浪費を償うために農民に重い税が課せられることになる。また、なにより小さな所領の領主がただ自分の虚栄心を満たすだけの建設計画のために、少ない財源を使い減らしていられるような時代ではありませんでした。
  文久2年(1862)生麦事件(イギリス人殺傷事件)が発生します。その後、英、仏、米の戦艦から砲撃を受けるような事件も起こり、ゆっくりだが、着実に幕府の権威は崩れていきます。
  富蔵は江戸屋敷の新普請の案を通さぬよう領主に対し再三説得していました。しかし林は簡単に引き下がる男ではありませんでした。
  元治元年(1864)11月、将軍家より六角家領主に対して、奈良の神武天皇の陵に代理で参拝してくるように命じてきました。しかも悪いことに富蔵が主人の任務の御供を命ぜられてしまいます。
  富蔵の留守に乗じて、用人林はただちに行動します。村々を回り、村民を買収、富蔵を拒否して、林一派の人間を新しい名主に選ぶよう奸策をしかけてきます。
  これに対し、小中村の若い名主、田中兼三郎は猛烈な反抗を見せます。
  兼三郎の持ち前の性格は、喧嘩早く妥協しない性格で、自己の信念を決して曲げぬ態度でした。己が代表をつとめる村民を正当に扱わねばならぬとする親譲りの責任感・・・こうしたものが兼三郎を反抗にかりたてます。
  兼三郎は六角家の上屋敷に怒りの言葉に満ちた上申書を送りつけ、林の陰謀を即刻やめさせるよう取りはからってもらいたいと要請します。しかしこの時代、領主に対してこのような上申書を出すことは、ほとんど犯罪に等しい所作だとみなされていたので、兼三郎は名主の役職を解任されてしまいます。
  機に乗じて用人林は、江戸屋敷普請を始めるよう命じ、領内の役人に圧力をかけ、林の指名する人物を名主に就かせるよう画策します。また財政立て直しのために領外からできるだけ低金利で金を借入れるといった方策なども禁止してしまいます。
  田中富蔵と息子兼三郎は、林を奸賊と呼び、幼い領主を御暗君の趣のある君だと述べ、激しい言葉を重ねた上書を江戸屋敷に送ります。即座に二人は解雇されてしまいます。
  闘争は激化。しかし慶応3年(1867)幕府は崩壊の間際にありました。
  兼三郎と仲間たちは、静岡まで来ていた官軍の総監府に赴き、林の罷免を嘆願するという大胆な手を打ちます。驚いたことに、この国の一大事の時に、農民の一団による嘆願が聞き届けられました。
  林および腹心の者たちが就縛され、富蔵、兼三郎親子は復職を許されます。しかし、これで一見落着とはならず、林の失脚によって損失を受けることになる者たちが、これではたまらぬと画策して林を放免させてしまいます。
  この闘争を持続する決意を固めている兼三郎は、今度は密かに水戸に行き、尊攘派の侍集団として力をもっていた「天狗党」の助けを借りようと考えました。しかし天狗党は忙しく兼三郎たちの願いに耳を傾けるひまはありませんでした。
  最後に兼三郎たちは、六角家の祖は京都の公卿より出ていたので、江戸幕府に代わって間もない明治新政府と親密な関係にある六角家の親族に働きかけてもらおうと、林の再逮捕の嘆願書を手渡します。
  ところがこれが最悪の結果になってしまいます。嘆願書を受け取った六角家の親族は、そのまま領主のもとに送ってしまいました。  明治元年(慶応4年・1868)5月、兼三郎は六角家の牢獄に投ぜられてしまいます。
  兼三郎の裁判は翌日から始まり幼い領主と林の席の下、旧体制の一官吏が尋問を行った。
  兼三郎は高手小手に縛りあげられて土間に座らされますが、正面の吟味役を見上げ、林が6年にわたり行った御用金の横領と悪政をそしり激しい告発を行います。
  しかし刷新されたばかりで、非常に不安定な状態にある政治状況と社会状況にあって訟廷は止まってしまい、兼三郎は3尺4方の極めて狭い牢獄に押し込められることになります。
  毒殺を恐れて、獄の食事は口にせず、同志が差し入れてくれた鰹節をなめて、30日間命をつないだと後に語っています。もはや、訟廷が開かれそうもない気配だったが、捕らえられてから10ヶ月と20日たって、兼三郎は呼び出しを受けます。それは審問を行うためではなく有罪を宣告するためのものでした。
  その判決は「領分を騒がし、身分柄に有るまじき容易ならざる企てを起こし、僭越の建白をなせしは、不届の至りなるにより、厳重の仕置申付べきの処、格別の御慈悲を以って、一家残らず領分「永の追放」申付くものなり」というものでした。
  この判決は、田中兼三郎たちにとって、見た目ほど決定的に不利なものではありませんでした。  なぜなら、「領分から永の追放」といっても、領分もその境界線も、このすぐ後に廃止されてしまいます。
  版籍奉還、廃藩置県が実行されたのである。
  そして筆頭用人林三郎兵衛と部下たちは、免職を言い渡され、復職の望みがない「永の暇(いとま)」で、部下と共に追放されました。
  明治元年(1868)11月に至り、領主である六角主税は隠居させられ、次男雄次郎が家督を継ぐことになります。そして翌明治2年2月小中村名主田中兼三郎は解放されます。兼三郎たちの敗北と見えたものが完全な勝利となったのでした。
  なお、六角家領地の名主たちのリーダーとして活躍した小中村の名主、田中兼三郎はのちの田中正造の若き日の姿です。

参考資料

  1. 『田中正造と足尾鉱事件と歩く』  布川了著  1994年発行
  2. 『田中正造の人と生涯』  雨宮義人著  1954年発行
  3. 今福町厳島神社弁財天宮銅製棟札より  2008年10月発見

今福村領主六角家について

今福村領主六角家について
烏丸権大納言光広
  • 江戸前期の公卿・歌人
  • 幼児、日蓮宗の僧である日重に預けられ、清原清賢に儒学、細川幽斎に和歌を学ぶ。
  • 後陽成天皇、後水尾天皇に仕え、権大納言に至る。
  • 徳川家光の歌道師範を務める。
  • 本阿弥光悦、俵屋宗達ら文化人と交流し、歌集「黄葉和歌集」を出す。
  • 寛永15年(1638)60歳没
広賢
  • 光広の次男。六角氏の祖。
  • 天保4年(1647)本照院宮守澄に従い江戸に下る。
廣治
  • 天保元年(1644)~享保4年(1719)
  • 父広賢の死後、母方の祖父、本庄道芳に養育される。
  • 延宝3年(1675)守澄親王の推挙により、4代徳川家綱に御目見する。
    翌年5月10日、小姓組に加えられ、蔵米2百俵をあたえられる。
  • 元禄2年(1689)45歳、高家職に就き、下野足利郡内、木工権頭に叙任する。
  • 今福村東山に「弁財天宮」を創建、元禄5年(1691)5月改営し、現在の「弁財天」様の形になる。
廣豊
  • 享保6年(1721)2千石を知行(実地収入2千6百石)
  • 下野国阿蘇郡足利郡の7カ村と武蔵国2カ村を領地とした。
    わずか2千石なるも、威格は万石の上を誇る。
(稲岡村、小中村、山川村、助戸村、田島村、大久保村、迫間村、今福村)
主税
  • 文久2年(1862)六角騒動が起こる。
  • 奸賊、筆頭用人  林三郎兵衛の排斥と暗君領主の更迭を求める。
  • 元治元年(1864)幕府は六角家に対し、将軍に代わって神武天皇陵へ参拝を命じる。
  • 明治元年(1868)11月、領主である六角主税、隠居を命じられる。
  • 林三郎兵衛一派は、東山道総督より足利戸田藩に引き渡され免職、「永の暇」となる。
雄次郎
  • 次男の雄次郎が家督を継ぐ。

毘沙門天山門(仁王門)と堀江一族  (大岩町  別当多聞院最勝寺)

毘沙門天に参拝して森厳静寂な境域にたたずむと、古色蒼然とした諸道のただずまいに、七堂伽藍・十二坊をようし山岳密教の聖地として栄えたこの寺の古い歴史の後が彷彿と偲ばれます。
  本堂に通ずる石段を登りその中腹に山門(仁王門)はあります。中にある仁王像は鎌倉期のものとされ運慶の作と伝えられております。
  玉眼らんらんと四界を圧して岩座上に立ち背丈は一丈(280センチ)、阿・吽の形相も厳しく俗界の邪悪を睥睨して隆々とした体躯は写実的量感にあふれて、参詣の人々の足をとどめて感動させております。その仁王門のすぐ横に、毘沙門天と堀江家の関係を記した案内標があります。
  案内標に記されている月谷町・板倉町の堀江氏はともに戦国の武将堀江中務丞景忠を祖とする一族である。景忠は越前国(福井県)にその名を残す堀江氏の頭領で知勇ともに優れ天正年間(1573~1590)に活躍した武将であった。
  天正10年(1582)に起きた「本能寺の変」により、甲斐国、信濃国に及んでいた織田信長の領国は、空白地帯となり北条氏、徳川家康、上杉景勝による争奪戦の場となってしまう。  
  堀江景忠も戦国武将の宿命を背負い、一族の頭梁として戦乱の生涯を送る。織田の元老柴田勝家に知遇されていたが、信長が本能寺で討たれ、信長亡きあと勝家と羽柴秀吉による、織田家世継の確執により、賎ヶ岳につぎ、北の庄の合戦に破れた勝家が自害滅亡(天正11年、1583)するに及び、景忠もまた流浪の将となる。時に景忠51才であったという。
  その後、東国に下った景忠は、信長の武将で厩橋城主(前橋城主)であった滝川一益と合流したが、勢力拡大を目論む、北条氏と上野国神流川にて合戦となり、滝川勢と共に敗れてしまう。(神流川の合戦)
  多くの郎党を失い、自らも負傷し、由良信濃守(太田金山城主)に匿われて、景忠は傷を癒し、数ヶ月を過ごしたと伝えられています。近くの薮塚温泉で、傷を癒したのかもしれません。
  この間に、景忠は武門の常とは言え、一族郎党を犠牲にし、また罪無き民衆を殺傷した半生を顧みて、武士を捨て、その霊を慰め、余生を供養と一族の存続に懸けることを決意する。
  景忠は、大岩山の東麓に要害堅固なる地を選び(月谷町)、朝夕、家門の武運を祈り、遥拝する大岩山毘沙門天を究意の地と定め、郎党相携えて毘沙門天に帰依し最勝寺に庇護されたと言われます。
  初代景忠は、藤原利仁将軍の末裔斎藤別当実盛の子で堀江大善太夫盛忠の家系です。盛忠の子孫は、代々越前国(福井県)にその名を残し堀江寺、堀江城は、その遺跡とされています。
  天文元年(1532)に生まれた景忠は、初め朝倉義景に仕えて、執事を務めるほどの人物であった。永禄元年(1567)室町幕府の末期、15代足利義昭の権勢も衰え、世の変遷を見起した景忠は、織田信長との同盟を謀り、主である義景に進言するが、主家に対する謀反として、越前国を追われてしまい、織田家に応じることになる。
  元亀元年(1570)、織田の軍勢と、浅井・朝倉軍との姉川の合戦には、織田の陣にあって、旧主に弓を弾くことになるが功を立てることとなり、その後に起こる信長の比叡山焼き討ちに始まる宗門の掃討には、旧領越前国滝谷寺の郷を救うため身命を賭して、信長に直訴する。  
  戦禍をまぬかれた領民は、郷土の救世主と敬い、現代まで語り継がれています。
  近年、滝谷寺のある三国町では、町史の編纂に当たり、月谷町堀江家を訪れ、同家に伝わる古文書、その他の資料による史実に基づき、編集刊行され、景忠顕彰碑も建立されました。記念式典には一族の代表が招かれて参列したといわれています。
  景忠の子、景信は月谷堀江を継ぎ、弟三郎雅楽介忠憲を、板倉の豪士首藤氏の養子にだすが、景憲は首藤姓を名乗らず、板倉堀江の初代となっている。
  岩舟の堀江氏は、同町下津原がその地域で、江戸時代名主を務めた旧家であるが、宝暦年間の火災で、史料を焼失し詳細な伝承は残っていない。月谷、板倉の堀江氏の伝承により、岩舟堀江氏も景忠の一子が祖であるという。
  景忠没後100年治平の世となって、地域形成の発展を遂げた一族は、元禄6年(1693)に祖景忠公の遺志による山門(仁王門)の改築を果たし、永代にわたり一族による営繕供養を寄進して、祖先の追福を祈願している。このことは「堀江一族の家訓」として、現在に受け継がれております。
JR高崎線新町駅から国道17号線を東へ行き、神流川橋の北側のたもとに、本能寺の変の直後、織田方の滝川一益と後北条氏が戦った、「神流川古戦場の碑」があります。
  『平成16年5月10日  日本三体霊佛大岩山毘沙門天王  開山1250年記念事業委員会事務局編集』より

大岩山毘沙門天  山門(仁王門)と仁王像の保存修理の概要

足利市指定文化財(建造物)

建物概要
建物名称 山門(仁王門)
構造形式 木造平屋建(八脚門)、入母屋造桟瓦葺
延床面積 24,98平方メートル(7,55坪)
建築面積 41,45平方メートル(12,53坪)

 

建物略歴
元号 西暦 内容 史料 記述内容
元禄6年 1693 山門創建 棟札
(山門天井裏棟木取付)
堀江家古文書
奉建立  仁王堂
本願主  月谷村・板倉村  堀江家
別当    大岩山最勝寺  峻宥
          大岩村名主  小林惣兵衛安廣
          大工  大久保村  橋本孫右ヱ門
宝永4年 1707 仁王像再興 堀江家古文書

奉再興    仁王両尊像
本願主    月谷村・板倉村  堀江家
別当    大岩山最勝寺  峻宥
          仏師  法橋治部江常證廿四代孫治郎
          手代  平兵衛  ・嘉兵衛
          塗師  五郎兵衛・徳左ヱ門

宝暦5年 1755 山門屋根改修
(茅葺屋根から瓦葺屋根へ改修)
札(山門天井裏棟木取付)
堀江家古文書
奉改修覆瓦葺
本願主    月谷村・板倉村  堀江家
別当    大岩山最勝寺  宥栄
          毘沙門領役人  斉藤彦八
          田島喜兵衛
          瓦師  足利町    小林和泉
明治26年 1893 仁王像修繕 札(山門頭貫下札)
堀江家古文書

奉修繕    仁王両尊像再々変
本願主    月谷村・板倉村  堀江家
別当    最勝寺  住職  大谷玉蓮
          全上世話人  田島金太郎
                          柿澤忠助
                          小林平内

                仏師  上野国邑楽郡館林
                        五月女助蔵

明治43年 1910 山門屋根
仮修繕
堀江家古文書 施主  月谷村・板倉村・堀江家
大正2年 1913 山門屋根
仮修繕
堀江家古文書 施主  月谷村・板倉村・堀江家
昭和48年 1973 山門屋根及び
仁王像台座修復
札(山門天井裏棟木取付)
堀江家古文書
修理収支目録
施主  月谷村・板倉村・堀江家
昭和62年 1987 山門屋根部分修復 堀江家古文書
修理収支目録
施主  月谷村・板倉村・堀江家
平成6年 1994 山門屋根
覆幕捨張補修
堀江家古文書
工事収支目録
施主  月谷村・板倉村・堀江家

※その他、度重なる修繕が行われていますが、修理箇所、内容が不明なものは割愛しました。

※本表は、路川寿男氏(足利市文化財愛護協会三重地区担当役員)作成の『山門  営繕管理の変遷』(平成17年11月25日編著)を編集しました。

日本に誇れる三重地区の絵馬

  絵馬の発生は古く、古代荒ぶる神の神霊を鎮めるために生きた馬を奉納したことに始まる。やがて、生馬の奉納から木馬、土馬、紙馬などにかわり、さらにそれが転じて絵馬となったという。
  鎌倉、室町時代を経て、馬以外の絵が描かれるようになり、専門の絵師による美術的に優れた大絵馬も現れるようになった。しかし、こうした流れとは別に、庶民のささやかな願い事を小さな板に描いて納めるという小絵馬の信仰も、絵馬の長い歴史の中で現在も脈々と行き続けている。
  足利の絵馬は、たくさん残されていることで全国的に広く知られている。その中でも、特に三重地区の数々の神社や寺に残された絵馬は、民族的にも、美術的にも貴重なものも多く、三重地区の文化遺産として大事に守っていかなければならないものの一つである。
  そのためには、まず残された様々な絵馬に触れ、小さな板きれが大きな心の支えとなって生きる力を与えてくれた、信仰の姿をしることが肝要である。

「三重村足利市合併50周年記念誌より」(足利市文化財保護推進委員  岩崎いく夫)

 

二重坂と碑と地蔵菩薩

  以前、足利から桐生方面への道は、国道より北の台地、-今福-五十部-山下-大前などの村落を通っていましたが、享保18年(1733)に六部(巡礼者類)の道運という人物が二重坂を開削したと伝えられています。
  道運は板倉の医王寺に住みつき、大前坂の開削や山下の橋供養塔(宝暦4年(1754))を建立しています。

足尾通見取絵図※クリックして拡大してご覧ください。

寛政年間(1759~1801)
五街道に附属する道路絵図に書かれている二重坂
「足尾通見取絵図」より

現在の二重坂(約130年前に開削された)

時は流れて明治11年(1878)に至り、篤志家の寄付により二重坂はさらに拡幅されました。(前年の西南戦争による織物等の特需景気により足利地方は大いに潤っていました)
  時の栃木県令は鍋島貞幹、足利・簗田郡長は内田祐宜でした。この時の記念碑が現在も残っています。

二重坂

現在の二重坂の碑

碑の題額には「足利開鑿二重坂路記」とあり、時の太政大臣であった三条実美の筆です。碑文は川田剛の撰文、書道の大家である巌谷修の書になる記念碑です。
  開削にあたっては「此経費醵金」とあり、篤志家の寄付金によって実施されたこと。
  官財ではなく民力によって高さ各78尺若(23.4m)、12丈(36.4m)もある岩が削られ、広さ4間(7.2m)、長さ70間(126.7m)にも及ぶ坂道が完成したこと等。
  その一部始終が碑文に詳しく刻まれています。費用は当時で3,767円であったといいます。

記念碑

二重坂頂上の地蔵菩薩

宝暦13年(1763)に建立されたもので、願主道運とあります。
  二重坂は別名「念仏坂」と言われ、よく追剥(おいはぎ)がでたといわれています。
(足利市文化財保護推進委員  岩崎いく夫)

地蔵菩薩

二重坂

今福町厳島神社(弁財天)

江戸時代からの神社で、今日まで何度かの修復を続けてきましたが、さすがに倒壊の危機にありました。平成19年改築工事を行いました。
土台部分の修理と屋根は銅板葺きにして全面改築し、彫刻部分は彩色し直しました。
  なお、解体改築の中で古い棟札が発見されました。この時代(5代将軍綱吉公の時代)としては非常に珍しい銅板製の棟札でした。これを見ますと、元禄2年(1689)今福村の領主となった六角越前守廣治が創建した弁才天神社を元禄5年(1692)5月に改営(改築)したようです。
  平成19年12月に発見された銅版製棟札には、

 

改営奉行    勅使川原新右衛門尉知儀
      副司    小林源田夫重勝
                長島次郎大夫森清
今福名主    勘右衛門
      大工    小林孫兵衛

 

と彫られています。(足利市文化財保護推進委員  岩崎いく夫)

 ※クリックして拡大してご覧ください。

今福町厳島神社

今福町厳島神社(弁財天)

六角廣治(正保元年(1644)~享保4年(1719)

江戸時代の高家旗本。六角広賢の長男。官位は従五位下侍従、越前守、木工権頭。
延宝3年(1675)守澄法親王の推挙により、4代将軍・徳川家綱に御目見する。翌年5月10日小姓組に加えられ蔵米200俵を与えられる。
元禄2年(1689)に高家職に就き、下野足利郡内で1000石を与えられる。
高家旗本とは、幕府の儀式・典礼等を司る役職。六角家の他に武田・織田・今川・浅野・吉良等、室町幕府以来の名家が世襲していた。


掲載日 令和5年2月1日
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