【梁田公民館】梁田戦争をご存知ですか
梁田戦争のあらまし
慶応4年(1868年)3月9日早朝、上渋垂方面から急進した西軍(薩摩藩四番隊、大垣藩、長州藩)約200余名は、辰の上刻(午前7時頃)、いっせいに銃砲攻撃を開始した。薩摩藩、大垣藩は例弊使街道を梁田宿へ、長州藩は南側から迂回し、本郷と中屋敷の中間から梁田宿中央裏手へ、薩摩藩一小隊は本道上から小生川へ渡良瀬川沿いに進撃した。
いわば、梁田宿を三方から包囲する作戦であり、深い朝霧に隠れての奇襲攻撃であった。
一方、総督・古屋佐久左衛門が率いる東軍(幕府軍)約900余名は3月8日午後、羽生陣屋を出発し梁田へ宿営した。翌9日の早朝に出発する予定で、まさに朝食の準備中であった。
完全に不意を衝かれた東軍も勇猛果敢に防戦し、梁田宿一帯はしだいに市街戦の様相となり、やがて凄惨な白兵戦となった。次第に宿場の中に追い込まれた東軍は、次々と戦死者を出し、午前10時頃その戦いは終わった。
東日本最初の戦いという梁田戦争(梁田の役)が、足利地方における明治維新の幕開けとなった。
同年4月に、江戸城は開城し、9月に年号は明治元年となった。
弾痕の松(梁田公民館敷地内)
公民館内の展示品のご紹介
- 主な展示品について、簡単にご紹介いたします。
- 公民館は土曜日・日曜日・祝日は閉館しておりますので、ご覧になれません。
イラスト「梁田の戦い」
梁田宿での西軍、東軍の布陣、行軍について、描かれています。
弾痕の柱
梁田宿の中央部にあり、戦火にあった旅籠(はたご)明保野(あけぼの)。
西軍に打ち込まれた玄関脇の大黒柱が往時の生々しさを伝える。
明保野の建物は、180年の歴史に幕を閉じ、昭和59年に取り壊された。
その際、大黒柱は歴史の証人として梁田小学校に保管され、現在は、梁田公民館に保管されている。
西軍の大砲丸
砲弾の中には、小さな丸い玉が多数入っている。
火縄銃
幕府軍兵士が使用したものと伝えられている。
最大射程200メートル、有効射程50メートル、別称「種子島(たねがしま)」。
幕末まで使用された。
小銃の弾
スペンサー銃、エンピール銃、シャスポー銃、スナイドル銃などから撃たれたもの
鎖帷子(くさりかたびら)
小さな鎖を編み連ねて襦袢のように作った帷子。
軍服の下に着込んで使用した。
薩摩藩四番隊士・児玉利国の自筆掛軸
学校草花 さく花も や可てみとなる
う郡ゐ子可 ま奈穂乃庭の 大和撫子 八十三翁 利国
「大和撫子の花のように校庭で遊ぶ幼児もやがて立身出世するであろう。成長が楽しみだ」
梁田戦争に参戦した薩摩藩四番隊士・児玉平太郎(のちの利国、海軍少将)が、56年ぶりに梁田を訪れ、梁田小学校で詠んだもの。
自詠揮毫の掛軸を「梁田戦跡史」の著者、真下中尉に託した。
地区内にある梁田戦争に関連したもの
弾痕の松
梁田戦争時に、幹に砲弾を受けた松。当時は民家にあったが、由緒ある松として、大正7年頃、梁田村に寄贈され、梁田小学校敷地内に移植された。その後、梁田公民館敷地内に移植され、現在に至っている。
写真中央のくぼんだところが、弾痕。
足利市重要文化財(平成17年3月指定)
梁田戦争戦死塚
梁田戦争に倒れた幕軍戦死者の墓。
表面に「戦死塚」
裏面に「慶応四戊辰年三月九日 戦死六十四人此地埋 梁田宿」と行書をもって陰刻してある。
梁田戦争の直後、村民の手により渡良瀬河原に合葬し墓碑を建てたが、その後河流の変遷のため、明治43年に星宮神社傍に碑を移し、遺骨は現在地に改葬、昭和6年に碑も現在地に移して、今日に至っている。
所在 梁田町 長福寺
足利市重要文化財(昭和42年9月指定)
明治戊辰梁田役東軍戦死者追悼碑
梁田戦争に従軍した内田万次郎が建立。
石碑裏面に「大正13年当時従軍衝鉾隊士 従四位勲三等 内田万次郎」と刻印。
所在 梁田町 長福寺
足利市重要文化財(平成17年3月指定)