企画展「足利学校を訪れた人々―渋沢栄一を中心に―」アーカイブ
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令和6年6月4日~7月11日まで開催した企画展「足利学校を訪れた人々―渋沢栄一を中心に―」の内容を公開します。
※このページは大学生等がインターンシップ内で作成したものを編集したものです。
※展示は終了しました。
概要
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会期:令和6年6月4日(火曜日)~7月11日(木曜日)38日間
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会場:足利学校遺蹟図書館、庫裡(史跡足利学校内)
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来場者数:3,489名※遺蹟図書館入館者数
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内容:明治後期から大正初期にかけて足利学校を訪れた、渋沢栄一、大隈重信、嘉納治五郎、中村不折の4名が遺した資料を紹介しました。
展示記録
渋沢栄一(1840~1931実業家)明治43(1910)年6月4日来訪
明治・大正時代の実業家です。武蔵国の豪農渋沢市郎右衛門の長男として生まれ、幕臣を経て明治政府に出仕しました。パリで学んだ知識をいかし、新貨条例・国立銀行条例など諸制度改革を行っています。日本に初めて合本組織(株式会社)を導入し、第一国立銀行・王子製紙・大阪紡績など500社の創立・発展に貢献し、両毛鉄道会社の設立にも尽力しました。また、伝統的な儒教道徳の持主で、実業界の道徳水準を高め、その社会的地位を向上させることに努めています。実業界から引退した後は、教育・社会・文化の各方面の社会公共事業に力を注ぎました。
渋沢栄一は、明治43(1910)年6月3日に夫人や令嬢同伴で桐生方面から足利へと向かい、足利館に一泊し、翌4日に足利学校を訪れています。足利学校を訪れた後には東校の講堂で講演を行い、各織物工場等を視察しました。翌年の8月には「温良恭謙譲」の書が贈られました。
『論語』渋沢栄一書大正15(1926)年刊
『論語と算盤』を書くなど企業経営に道徳を重視していた渋沢栄一は、『論語』の全文を自ら書き、印刷して企業人など多くの関係者に配布しました。本書は、昭和2(1927)年に足利学校へ寄贈された本です。
書跡『来訪者揮毫集』経折装皮表紙明治41(1908)年3月26日~昭和32(1957)年5月11日
明治時代以降、足利学校を訪問した多くの人々が記した「来訪者揮毫集」です。見開き約90頁にわたり、来訪者本人の直筆の書や絵などが署名とともに記されています。
渋沢栄一が書いた「天之未喪斯文也(てんの、いまだこのぶんをほろぼさざるや)」は、『論語』の子罕(しかん)第九の第五章にある言葉です。
書跡「温良恭謙譲」渋沢栄一書絹本額装明治44(1911)年8月
『論語』学而第一の第十章にある「温良恭倹譲」がもとになったものです。「温良恭倹譲」は孔子の人柄を表しています。※温:おだやか良:素直恭:うやうやしい倹:つつましく行いにしまりがある(謙:つつしみうやまう)譲:謙遜で人に譲る
渋沢栄一も読んだ『論語』
『論語集解』(足利市指定文化財)江戸時代初期写本魏 何晏(かあん)撰
中国魏の何晏の撰といわれる『論語』の注釈書です。孔安国(こうあんこく)や鄭玄(じょうげん)など前漢から魏の時代までの八家の説を集めており、古義を知るために重要な書です。※八家:孔安国(前漢)、馬融(ばゆう)・包咸(ほうかん)・周氏(しゅうし)・鄭玄(以上後漢)、陳群(ちんぐん)・王粛(おうしゅく)・周生烈(しゅうせいれつ)(以上三国・魏)の八人のこと。
『論語集解』(正平版)(足利市指定文化財)文化13(1816)年序刊魏 何晏撰
原本は南北朝時代の正平19(1364)年、和泉国(現在の大阪府南部)堺の道祐(どうゆう)という人が刊行したものです。刊行時の年号を冠して『正平版論語』とも呼ばれます。わが国で最も古い経書の印刷本です。
本書は文化年中、儒学者の市野迷庵が正平版単跋本(たんばつぼん)を覆刻して、寄贈したものです。※単跋本:初刻本の跋文(あとがき)末行を削って覆刻したもの。
嘉納治五郎(1860~1938教育家・講道館館長)大正2(1913)年12月22日来訪
明治から昭和初期にかけての教育家です。摂津国の嘉納治郎作の三男として生まれました。明治14(1881)年東京大学文学部政治学科および理財学科を卒業し、翌年学習院講師となります。また講道館を開き、学業のかたわら門下生に柔道を教えました。明治42(1909)年アジアで最初の国際オリンピック委員会(IOC)委員となり、明治44(1911)年に大日本体育協会初代会長に就任、さらに翌年第5回オリンピック大会に団長として参加するなど、国際的にも活躍しました。
大正2(1913)年12月22日(冬至の日)に行われた釋奠に記念講演の講師として招かれ、「足利町と足利学校遺蹟」の講演をしました。また、明治4(1915)年には、冬至の日に行われていた釋奠を毎年11月23日に改めるにあたり、当時東京高等師範学校(現筑波大学)校長であった嘉納治五郎に相談し、変更しています。
書跡「成己益世」嘉納治五郎書絹本額装
己を成して世を益する、という意味です。彼の教えであった「柔道はただ強くなるだけではいけない。自分を完成し、世の中のためにつくせる人間にならなければならない。」という信念が書かれています。
本書は、足利市通六丁目に生まれた茂呂茂吉(1891~1973)が嘉納治五郎からもらったもので、茂吉の生き方に大きな影響を与えました。茂吉は、家業の立花屋(現第一立花)に精励するかたわら、明治44(1911)年に講道館入門を志して嘉納治五郎宅を訪問し、許可されました。大正12(1923)年、群馬、栃木両県対抗試合を大会委員長として足利市で開催。昭和6(1931)年、足利市体育協会を組織し、戦後も副会長として活躍しました。昭和42(1967)年には財団法人昭徳館を設立。昭和48(1973)年、83歳の生涯を閉じました。講道館8段、栃木県柔道連盟副会長、栃木県西部柔道会会長などを歴任し、戦後柔道の発展に尽くしました。
足利学校釋奠講演筆記「足利町と足利学校遺蹟」
※PDFを開くと全文を読むことができます。
書簡「嘉納治五郎 ヨリ 足利学校遺蹟図書館川島平五郎 宛(釋奠式挙行日について)」大正4(1915)年9月29日
東京の湯島聖堂では明治40(1907)年に孔子祭典会が創立され、明治維新後はじめての釋奠が復活しています。嘉納治五郎は、会の発起人でした。足利学校の釋奠の見直しを行った際には、湯島聖堂の孔子祭を参考にしています。その時点から、関係者とは助言を受けるなどの関係があったようです。
大隈重信(1838~1922政治家)明治41(1908)年4月26日来訪
大隈重信は、明治41(1908)年4月26日に足利学校を訪れています。当時の足利の賑わいは未曽有の盛況で、毎戸国旗を掲げ、沿道の人は山のようで、いたる所に紅白の幔幕が張られて華やかだったと記録されています。明治40(1907)年に開通したばかりの東武鉄道足利町で下車し、足利公園にて歓迎会が行われ、足利銀行、足利学校、助戸の木村工場を視察、三丁目戸叶呉服店の別邸で一泊しています。翌27日には鑁阿寺、柳原小学校、山保工場、模範撚糸会社等を視察し帰京しました。
大隈重信来足時の写真明治41(1908)年4月26日
足利学校大成殿前での記念写真です。最前列中央の椅子に座っているのが大隈重信です。久松・北川両家従、清国憲政大臣・達壽氏、清国公使・李家駒氏、医師、新聞記者等大変多くの人々を伴い訪れています。
『大隈伯爵歓迎紀念録』足利町大隈伯爵歓迎会編明治41(1908)年11月
『適斎回顧録』荻野万太郎著昭和11(1936)年5月
荻野万太郎(1872~1944)は、足利銀行の創設者として知られ、足利市内外の政財界に大きな足跡を残した人です。町会議員から県会議員などを歴任し、足利学校や足利の南画家・田﨑草雲の遺跡保存などにも尽力しました。自伝『適斎回顧録』は、近代の足利を知るうえで欠かせない資料となっています。本書には、東郷平八郎・伊東祐亨・上村彦之丞・大隈重信・渋沢栄一・乃木希典などが足利を訪れた際の記録が記されています。
中村不折(1866~1943洋画家・書家)大正2(1913)年2月26日来訪
明治から昭和時代にかけての洋画家。東京生まれで、本名・鈼太郎(さくたろう)、別号・孔固亭(こうこてい)、環山(かんざん)、豪猪(ごうちょ)先生です。十一字会研究所に入り、浅井忠らのもとで洋画を学びました。明治34(1901)年に渡仏、ジャン=ポール・ローランスに師事しました。4年後に帰国、太平洋画会に属し、昭和12(1937)年に帝国芸術院会員となりました。画家のほか、書家としても活躍しました。新宿中村屋や長野県諏訪の銘酒〝真澄(ますみ)〟のロゴは不折の字です。
大正2(1913)年に足利を訪問。足利学校、鑁阿寺、行道山をめぐり、それぞれの風景をスケッチ画におさめました。
書跡「山中問答李白詩」
唐の詩人、李白の漢詩「山中問答」を中村不折が書いた作品で、大正2(1913)年に足利学校を訪れた際に書いたものです。
中村不折の足利学校訪問記(新聞スクラップ)大正2(1913)年
中村不折が、大正2(1913)年に足利を訪れた際のスケッチ画を掲載した新聞の切り抜きです。本資料は当時掲載されたスケッチ画11点のうち、足利学校が描かれているものです。