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構成資産の紹介

印刷用ページを表示する掲載日:2016年2月3日更新

ここでは「足利学校と足利氏の遺産」を構成する各資産について、ご紹介いたします。

位置関係

それぞれの資産の位置については、次のとおりです。

構成資産の位置関係を示す図

  1. 史跡足利学校跡
  2. 史跡足利氏宅跡(鑁阿寺(ばんなじ))
  3. 史跡樺崎寺跡(かばさきでらあと)〔法界寺跡〕

市の中央に史跡足利学校跡、史跡足利氏宅跡(鑁阿寺)が隣接し、その北東に史跡樺崎寺跡〔法界寺跡〕が位置しています。

構成資産の概要

それでは各構成資産の概要について、ご説明いたします。

~日本最古の総合大学~ 史跡足利学校跡

足利学校の起源については、国府野(こうの)にあった国学にはじまるとされる説や国学遺制説、小野篁創建説、足利義兼創設説、足利尊氏設立説など諸説ありますが、文献上でその具体像が明確になるのは、関東管領の上杉憲實(うえすぎのりざね)が足利学校に学則を示し、書籍を寄進してこれに関与と庇護を与えた15世紀初頭以後のことです。以後、長尾氏や後北条氏(ごほうじょうし)、徳川幕府らの庇護を受け、継承され現在に至っています。

16世紀、京都や鎌倉の学問所が戦乱の影響で衰退する一方、足利学校は唯一開かれた学校として最盛期を迎え、全国各地より学徒が集まりました。その出身者は、軍師や外交官、書記官などとして戦国武将に仕え、ブレインとして活躍しました。ザビエルをはじめ、来日した宣教師達が書簡や報告書に記しているのはこの頃のことで、儒学を基本とした足利学校の学問と教育は、彼らが会った西の国々のブレイン層を中心に浸透しており、キリスト教の布教を目的に来日した彼らにとって障壁となりました。

現在の足利学校は、江戸時代中期に建てられた現存する日本で最も古い「孔子廟」をはじめ、入徳(にゅうとく)・学校・杏壇(きょうだん)の3つの門などが建つ孔子廟エリアと、平成2年に復原された学校エリアに大きく分けられます。また、史跡内にある「遺蹟図書館」は、和漢の古典籍の専門図書館として、国宝4種(77冊)や、重要文化財8種(98冊)をはじめとする世界的にも貴重な古書など、約1万7千冊を所蔵しています。

平成27年4月24日には、史跡足利学校跡が、文化庁が新たにスタートさせた制度である日本遺産に、「近世日本の教育遺産-学ぶ心・礼節の本源-」の構成資産のひとつとして認定されました。

日本遺産の概要についてはこちらをクリックしてください。

現在の足利学校の様子

<孔子廟エリア>

孔子廟(大成殿)
孔子廟(大成殿(たいせいでん))
[国史跡附]
孔子坐像
孔子坐像[県指定]
小野篁坐像
小野篁坐像[市指定]
遺跡図書館と楷の木
遺跡図書館[市指定]と
楷の木[県指定]
入徳門
入徳門(にゅうとくもん)[国史跡附]
学校門
学校門[国史跡附]
杏壇門
杏壇門(きょうだんもん)[国史跡附]
収蔵庫
収蔵庫

  <学校エリア>

方丈・庫裡・書院
方丈・庫裡・書院

庭園
庭園
衆寮
衆寮(しゅりょう)
木小屋
木小屋
土蔵
土蔵
裏門
裏門

 <伝統行事、イベント>

釋奠
釋奠(せきてん)(毎年11月23日)
曝書
曝書(毎秋)
論語の素読
論語の素読(通年)
足利学校さままつり
足利学校さままつり(11月)

 

 ~室町幕府を創設した足利氏の氏寺(うじでら)~ 史跡足利氏宅跡(鑁阿寺)

12世紀後半に足利氏が築いた館跡(やかたあと)が現在の鑁阿寺(ばんなじ)で、現在も遺る堀と土塁(どるい)にその様子を窺うことができます。一辺200メートル程の大規模方形な館跡は、わが国における中世武士の城館の最も古い形態を残すものとして貴重です。鑁阿寺の創建は、足利氏の礎を築いた2代目足利義兼が館の一角に持仏堂を建てたのが始まりと伝えられ、以後、足利氏の氏寺として関東を護持する祈願寺として繁栄してきました。

現在の鑁阿寺は、鎌倉時代の建造物である本堂(大御堂)をはじめ史跡内に多くの建造物が建ち並んでおり、本堂は平成25年8月に国宝に指定されました。また、鑁阿寺文書や足利歴代将軍坐像、青磁大花瓶・香炉などの文化財が数多く遺される文化財の宝庫となっています。

現在の鑁阿寺の様子

<建造物>

本堂(大御堂)
本堂[国宝]
鐘楼
鐘楼[重文]
経堂
経堂[重文]
楼門と太鼓橋
楼門と太鼓橋[共に県指定]
東門
東門[県指定]
西門
西門[県指定]
中御堂(不動堂)
中御堂(不動堂)[市指定]
<伝統行事>
鎧年越し
鎧年越し(毎年節分)

 

~足利氏の廟所~ 史跡樺崎寺跡〔法界寺跡〕

史跡樺崎寺跡は、鑁阿寺と同じく足利氏2代目の義兼によって創建された中世寺院跡です。義兼はここで生入定したといわれ、中世を通じて足利氏の廟所として繁栄しました。戦国時代以降は足利氏の衰退とともに衰え、明治維新後の神仏分離令により寺院としての機能を失いましたが、樺崎八幡宮として地元の氏子の方々に守られてきました。

昭和59年より始まった発掘調査により、西側の八幡山を背景とした浄土庭園や、多宝塔などのお堂跡が確認され、平成17年度より発掘調査の成果を元に復元整備事業が進められています。今後、浄土庭園を中心として往時の姿を窺い知ることができるよう復原される予定です。

現在の史跡樺崎寺跡〔法界寺跡〕の様子

<建造物など>

樺崎八幡宮本殿
樺崎八幡宮本殿

御廟跡
御廟跡

供養塔覆屋跡
供養塔覆屋跡
多宝塔跡
多宝塔跡

<発掘状況> 

浄土庭園の園池岬
浄土庭園の園池岬
浄土庭園中島の景石
浄土庭園中島の景石(かげいし)
出土遺物
出土遺物