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審査結果とその後の取り組み

印刷用ページを表示する掲載日:2016年2月3日更新

提案の審査結果

全国から32件の提案があった中から今回5件が暫定一覧表追加資産として公表され、その中から現段階で課題をクリアしている3件が新たに暫定一覧表に記載されました。
本市を含む27件の提案については「世界遺産暫定一覧表候補の文化遺産」として整理され、それぞれ文化庁から課題等が提示されました。
本市の提案「足利学校と足利氏の遺産」については、「世界遺産暫定一覧表候補の文化遺産」のうち「カテゴリー2(世界遺産暫定一覧表へ記載されるためには大幅な見直しが必要)」と総合評価が位置づけられましたが、「足利学校とその関連資産」としては我が国の世界遺産暫定一覧表には未だ見られない分野の資産として、「カテゴリー1」に分類されました。
また、「教育」のコンセプトで類似する他市提案との比較研究を進めるべき、との意見が添えられました。

今後、文化庁より提示された課題等を検討し、引き続き世界遺産登録をめざして各種事業を展開してまいりますので、皆様のご支援、ご協力をお願いいたします。
 
※ 審査結果の詳細については、文化庁のホームページをご覧ください。

 

審査結果後の取り組み

上記の審査結果を受け、今後の取り組み方針について”世界遺産検討会議”の中で検討いただき、本市の提案コンセプト「足利学校と足利氏の遺産」の更なる調査・研究を進めると共に、文化庁から示唆された「近世の教育資産」としての可能性についても調査・研究を進めることとなりました。各コンセプトの取組概要については次のとおりです。

「足利学校と足利氏の遺産」

”足利学校”と”足利氏”の関連を実証するため、鑁阿寺が所蔵する未調査文書等の調査を実施し、真実性及び完全性の確認に努めています。

「近世の教育資産」

「近世の教育資産」として関連する茨城県水戸市の【弘道館】、岡山県備前市の【閑谷学校】、大分県日田市の【咸宜園】との連携を図るため、市長による懇談・視察をはじめ、事務局レベルでの協議を進めています。

平成24年11月からは、水戸市・日田市とともに教育遺産世界遺産登録推進協議会を発足させ、平成27年5月からは備前市も加わり、教育遺産の調査研究や普及啓発(子ども向けパンフレット配布、国際シンポジウム開催等)に努めています。

関連資産のご紹介

弘道館(こうどうかん)(茨城県水戸市)

弘道館正庁[国重文] 弘道館正門[国重文] 弘道館孔子廟
▲写真左から正庁(国重文(くにじゅうぶん))、正門(国重文)、孔子廟

弘道館は、第9代藩主徳川斉昭により天保12(1841)年に創建された藩校です。水戸城内の178,431平方メートルという広大な地を充てられた弘道館は、当時の藩校として全国最大規模のものでした。施設は正庁(写真左)・文館・武館(ぶかん)・天文方・医学館・寄宿寮・調練場・矢場・砲術場ほか多数設けられ、その配置には建学精神に即して独特の工夫がこらされました。

弘道館は藩士に文武両道の修練をつませようと武芸一般はもとより、医学・薬学・天文学・蘭学など幅広い学問をとり入れた現在でいう総合大学としての性格を有していました。第15代の将軍徳川慶喜が慶応3(1867)年の大政奉還後、謹慎した至善堂をはじめ、至善堂と十間畳廊下で繋がる正庁や正門(写真右上)が現在も遺っており、貴重な建造物として国の重要文化財に指定されています。

水戸市世界遺産ホームページもぜひご覧ください。(リンク)

 閑谷学校(岡山県備前市)

閑谷学校講堂[国宝] 閑谷学校石塀[国重文] 閑谷学校聖廟[国重文] 閑谷神社[国重文]
▲写真左から講堂(国宝)、石塀(国重文)、聖廟(国重文)、閑谷神社(国重文)

閑谷学校は、寛文(かんぶん)6(1666)年、備前岡山藩主の池田光政公が和気郡木谷村の北端・延原の静かな地を訪れた際、学問の理想郷、庶民のための学校の建築を思い描きました。その実現のため同8(1668)年にこの地に手習所を設置、同10(1670)年に重臣の津田永忠(つだながただ)に命じて本格的な工事にとりかかり、この地を閑谷と改めました。

閑谷学校は領内の庶民や武士の子弟はもちろん、他領からも入学を許しており、「日本最古の庶民の学校」として、創学の精神が連綿と受け継がれました。また、備前焼の瓦が用いられた国宝の講堂(写真左上)をはじめ、優れた建造物が現在もよく遺っており、江戸時代の学校施設の典型として教育史上極めて価値が高いものです。

備前市世界遺産ホームページもぜひご覧ください。(リンク)

咸宜園(かんぎえん)(大分県日田市)

秋風庵 遠思楼
▲写真左から秋風庵(しゅうふうあん)、遠思楼(えんしろう)

咸宜園は江戸時代後期の文化14(1817)年に、儒学者の広瀬淡窓によって開かれた私塾です。「咸宜」とは「みなよろし」の意味で、門下生一人ひとりの意志や個性を尊重する教育理念が塾名(じゅくめい)に込められました。

また、入門にあたり学歴や年齢、身分を問わない「三奪法」によって、全ての門下生を平等に教育しました。そのほか門下生の学力を客観的に評価する「月旦評」や、規則正しい生活を実践させる「規約」、門下生に塾や寮を運営させる「職任」など、門下生の学力を引き上げ、社会性を身につけさせる教育が行われました。咸宜園は、淡窓没後も末弟の広瀬旭荘(ひろせぎょくそう)や門下生に引き継がれ、明治30(1897)年の閉塾まで、およそ5千人もの門下生が学び、近世最大規模の私塾となりました。

なお、広瀬旭荘は天保14(1843)年に足利学校を訪れ、『足利学校見聞記』を書き記しています。

日田市世界遺産ホームページもぜひご覧ください。(リンク)