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前田庠主のことば(平成16年11月23日)

印刷用ページを表示する掲載日:2004年11月23日更新

 昔、新羅(しらぎ)の国の元暁(がんぎょう)(617-686)という大変に優れた仏教僧が、義湘(ぎしょう)というもう一人の仏教僧と一緒に唐に留学することになりました。二人は旅の途中、ある夜、墓場で野宿をいたしました。そのとき喉が渇いてちょうどそこにあった器の中の水を飲みました。ところが翌朝、目が覚めて、その器が人間の髑髏(どくろ)であったことが分かり、髑髏の中の水を飲んだことにはっと気づき、急に吐き気をもよおしました。このとき元暁は、知らないで美味しく飲めた水も、ひとたび髑髏の中の水と分かると、途端に吐き気をもよおし、もはや飲むことが出来なくなったのは、一切のものが心によって生ずるからである、と悟ったと伝えられています。

 今日、科学技術創造立国というスローガンが声高に叫ばれております。そのために、日本の教育、とくに大学教育において、日本の将来を担う青年たちの心の教育に必須不可欠な哲学・倫理学・宗教学・史学・文学などのいわゆる人文科学がないがしろにされております。科学技術は決して万能ではありません。科学技術は、人間はいかに生きるべきであるか、などということは教えてくれません。科学技術が対象としているのは、物質の世界であって、心の世界ではありません。心の世界を対象とするのは、宗教であり、哲学であり、倫理学であり、人文科学の諸学問です。科学技術は、髑髏の水を美味しく飲ませこそすれ、心の目覚めを起こさせるものではありません。近年顕著な道徳の荒廃の一因は、人文科学の衰退に由来するのではないかと思います。しかし心の教育には、科学技術の教育のように、目に見えるような成果を期待することは不可能です。そのために即効性・功利性・経済性・利便性などに価値をおく現代社会においては、心の教育は等閑に付されがちです。

 しかし科学技術の教育は必要がないと言っているのではありません。科学技術の教育も人文科学の教育も共に必要なのです。現在のように、科学技術のみの偏重は避けるべきであると言っているのです。清らかな心の科学者は、髑髏の水のようなクローン人間や地雷や原子爆弾などを喜んで作ろうとは決して思わないでしょう。

 古来、足利学校は心の教育のメッカであったことを思い起こしたいと思います。現在が科学技術偏重の時代であるからこそ、足利学校の存在の意義はますます大きなものがあると確信しております。

平成16年11月23日
前田專學