ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップページ > 史跡足利学校 > 前田庠主のことば(平成25年11月23日)

前田庠主のことば(平成25年11月23日)

印刷用ページを表示する掲載日:2013年11月23日更新

 仏教の開祖ブッダは、ブッダガヤーで悟りを開き、サールナート(鹿野苑)で、初めて五人の修行者に法を説きました。その後ブッダガヤーに向かって遊行を続ける途中のことでした。ブッダは道からそれて、ある密林の方へと深くわけ入って、とある樹木の下で坐っていました。
 そのとき三〇人ほどの青年たちが、夫人同伴でやって来て、一緒に遊び楽しんでいました。しかしその中の一人の青年には妻がなかったので、かれはやむをえず遊女を連れて遊びに来ていました。ところがかれらが遊び楽しんでいるうちに、この遊女が仲間の持ち物を盗って逃げてしまったのです。
 そこでその青年は、他の青年たちと一緒に、遊女を探しながら、密林の中を歩いているうちに、樹の根もとに坐っているブッダを見つけました。かれらはブッダに近づいて、女を見かけなかったかどうか、と尋ねました。かれらが事の次第を話したところ、ブッダは、青年たちに向かって、つぎのように尋ねられました:
「青年たちよ、……きみたちが女を探し求めるのと、あるいは自己を探し求めるのと、きみたちにとってどちらが勝れていると思いますか。」
すると青年たちは、
「われわれは自己を求めることの方が、勝れていると思います。」
そこでブッダは、
「それでは坐りなさい。きみたちのために法を説きましょう。」
 「どうぞ。」
 その後、ブッダは彼等のためにいつものように訓話をされました。その結果かれらは真理を見、真理を得、他の人に頼ることのない境地に入り、ブッダのもとで出家したといわれています。
 ブッダが探し求めよ、というこの自己は、私たちが常に日常経験する我執に満ちた自我ではありません。求めるべき自己については、ブッダの遺言といってもよい言葉が残されています。
「この世で自己を島とし、自己をたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしてはならない。」(二六)(『大パリニッバーナ経』二)
 自己はあくまでもブッダが生前に明らかにした法、すなわち宇宙の真理と合致する自己であり、我執、無明にまみれた自我ではないことは明らかです。ブッダの目指したものは、真実の自己、本来の自己を実現することであったのではないでしょうか。

  平成25年11月23日
  史跡足利学校庠主 前田專學