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三重人物伝

印刷用ページを表示する掲載日:2010年9月27日更新

三重地区発!

足利の織物の発展に貢献した人たち

三重地区には織物発展に寄与した偉人たちが多く輩出されています。

かわしまちょうじゅうろう
川島長十郎

 五十部西舟出身

ほりこしぜんじゅうろう
堀越善重郎
 五十部東山出身

はつがいちょうたろう
初谷長太郎

 新田下町出身(今福2丁目)

わたなべやごろう
渡辺弥五郎
 今福村出身(現今福2丁目)
 戦捷カスリ製織法の特許を
 持った人物
かわいたかゆき
河合隆之
 今福村出身(現今福3丁目)
 「ツヅレ織」発明者
 S41年県文化功労者
なかばやしたのすけ
中林田之助
 今福村出身 (現今福2丁目)
 「寅毛シボリ」の発明をした人

工商会の父 川島長十郎

川島長十郎は五十部町の人で嘉永元年(1848)4月、当時丹南藩の領地であった五十部村の目付役、平右衛門の子として生まれました。
 明治5年学制発布とともに小学校設立に尽力し、村の人びとの敬意を受けて戸長(村長)になります。
 明治12年、栃木県議会議員になり10年間勤続、その間足利織物の発展に尽くしました。当時足利織物は粗製乱造がたたり声価が失墜していましたが、彼は各地の業界を視察、組合設立の必要を説き、明治15年足利工商会を組織しました。明治18年には染織講習所設立に尽力し、さらに明治21には足利、簗田機業組合の2代組合長に就任しました。
 評価の悪かった足利輸出織物が他に比類なしといわれるようになった影には、他の先達とともに、川長こと川島長十郎の力が大いにあずかっています。

1848年(嘉永元年)五十部村西舟に生まれる。
1868年20歳のとき五十部村名主を継ぐ。
1872年(明治5年)五十部村の戸長となる。
現在の三重小学校の所に「五十部学校」を設立し、村民の教育に意を尽くす。
織物の品質向上に努め、足利織物全体の発展・向上に尽力する。
村会議員、郡会議員を経て、明治12年には県会議員となる。
1877年(明治10年)東京の内国博覧会で織物審査員をつとめる。
岩本良助、3代木半兵衛、初代木村浅七らとともにフランス式ジャガード紋織織機を購入。
明治12年足利物産取扱所の設立に貢献
明治15年足利工商会の設立に貢献
明治16年東西の織物取引市場の設立に貢献
堀越善重郎を発掘。育成する。
1885年(明治18年)足利織物講習所を設立。所長に就任。
(現在の足利工業高等学校の前身)
<初代卒業生>
市川安左ェ門、木村浅七、岩本良助、荻野万太郎、関田広助、川島藤左ェ門など
1886年(明治19年)足利・簗田機業組合設立
初代組長に、3代木村半兵衛が就任。
1888年(明治21年)機業組合2代目組長に就任。
1937年(昭和12年)江戸時代の終わりから、明治、大正、昭和とさまざまな時代を生き、90歳で亡くなる。
瑞泉院(五十部町)に眠る。

貿易界の先駆者 堀越善重郎

堀越善重郎が学問を修めるため、木村半兵衛の推挙で上京したのは、明治11年のおおみそかでした。そして5年後には貿易商社の経営を身につけるため渡米しています。彼が22歳のときでした。
 少年時代の読書の素養と、進取の気象が必然的にもたらした幸運といえましょうが、渡米後の行路は決して平たんなものではなく、筆舌につくせぬ辛酸をなめたようです。
 シカゴのフレッチャー商会に雇われたものの、食うや食わずの毎日でしたが、そのどん底にありながら、片時も書物を手放さなかったといいます。
 たまたま彼の手記がシカゴタイムスにのり、各紙に転載されるに及んでようやく認められ、メーソン商会の日本側支配人となり、苦節十数年にして、ついに貿易商社「堀越商会」を創立、以後数十年にわたって外貨獲得の大役を果たしました。
 激賞を受けた在米中の手記は、日米通行に関するもので、彼の国際人としての面目躍如たるものがあります。

1863年(文久3年)足利郡三重村五十部東山に生まれる。
1868年5歳のとき瑞泉院雲居和尚の寺子屋に入る。
神童と評されるほどであった。
1878年(明治6年)五十部学校へ入学。
しかし満足できず、寺子屋に戻ってしまう。
父から農業専一を命ぜられ、農耕の合間、あぜ道で読書にふけっていたところ、その姿が村の指導者であった川島長十郎の眼にとまり、小俣村の買継商 木村半兵衛(3代目)に紹介され、東京遊学給費生となるに至る。
足利織物の海外進出を考えていた木村半兵衛は、善重郎に商業の学問を命じた。
明治11年16歳のとき東京神田の共立学校で英語を学ぶ。
明治13年築地の東京商法講習所(のちの東京商大、現在の一ツ橋大学)で商業を学び、明治16年卒業。
1884年(明治17年)22歳のとき、木村半兵衛が書画骨董を手放して作った300円を手に、アメリカ・ニューヨークへ渡る。
木村半兵衛からアメリカ人が好むような絹のハンカチを送ってもらい、みごとに売りさばいた。
1885年(明治18年)「メーソン商会」に移り、足利とアメリカを結ぶパイプ役を担う。
外国を視察する。
織物講習所第1回卒業式において祝辞を述べる。
1893年(明治26年)31歳のとき「株式会社 堀越商会」設立。
資本金は10万円。明治27年にはニューヨークに、明治32年にはパリに支店を出す。
1937年(昭和12年)太平洋横断80回。‘太平洋上の絹の橋‘を確立したが、74歳のときニューヨークで亡くなる。

織物機械化の先駆者 初谷長太郎

初谷長太郎は嘉永元年(1848)新田下町=現在の通一丁目=に織物買継を業とした安兵衛の長男として生まれ、後年、たび重なる失敗にも屈せず、ついに我が国で初めて機械による撚(ねん)糸製造に成功した人です。
 12歳のとき某塾生として、当時高名の蘭医鈴木千里の汽船や電信の話を聞いたり、文久2年(1862)古河町での商業見習いの間に、天狗党の一蘭医から聞いた西洋事情、親類の新田中町・安田源蔵の物理の話などから受けた彼の西洋への開眼はめざましく、撚糸への執念なども、実に青年時代における好奇心と向学心とのたまものと思われます。
 明治13年、町の大火で家を焼かれ、新天地を求めて今福に建てた新鋭工場は、まさに発展期を迎えようとしていた足利織物のさきがけであったでしょう。彼はまた、足利町戸長として町政に、県議として県政にも大きな功績を残しています。

1848年(嘉永元年)足利新田下町に生まれる。
文久2年12歳のとき、鉄道、蒸気機関車、電信を知り、ヨーロッパやアメリカに興味を抱く。
福沢諭吉の「西洋事情」を研究する。
1870年~(明治3年~)織物用の生糸ならば、撚糸(ねんし)として外国に売れるのではないかと考え、機械撚糸業を起業。
明治4年足利町総代に就任
明治8年~9年フランスから機械を取り寄せる。
政府に蒸気機関や撚糸機械の製造を依頼。
1878年(明治11年)日本における民間最初の織物用機械撚糸工場を足利の地(安田源蔵のかいこ小屋)に誕生させる。
しかし技術上の問題点から商売にならず、やまなく動力を水力に変更。栃木県から資金(2,000円)を得て、水車機械撚糸工場として再発足した。
明治12年足利町会議員となる。議長をつとめる。
1880年
(明治13年)
栃木県会議員に選出。
同年12月、足利町に大火事発生。工場も焼失してしまう。そのため、県会議員を辞職し、今福村に新しい工場を建設。(県から資金1,000円)
明治18年足利町戸長となる。
明治19年足利公園の造成
1896年(明治29年)栃木県工業学校(現足利工業高等学校)の実習用の機械の大半を製造。
1897年(明治30年)連合共進会という会を開催。リヨン手機式織物器一式という作品を出品し、注目を集める。
1904年(明治37年)今福村の自宅にて57歳で亡くなる。
善徳寺に眠る。